新生活に

California State University, Chicoをコミュニケーションデザイン・グラフィックデザインの学位で卒業しました。卒業クラス全体と学部から一つずつ賞をいただいた結果が、この卒業式の写真のメダルの正体です。三年間で卒業するというNICを修了した時点での予定通りでアメリカでの大学生活を終えることができました。最後の学期は、これまでと比べ物にならないくらいとても多忙なセメスターでした。ほぼ毎日ラボに深夜まで残って勉強をしていましたが、意外とそれほど嫌いというわけではありませんでした。 振り返ってみてやはり自分自身の中で興味深かったことは、最終的に自分がこれほどデザインという分野にのめり込むことができたということでした。実際にメジャーの授業を取り始める前から持っていたデザインに対する考え方というのは、あながち間違えてではなかったという風に思っています。最初は自分もアートとしてのヴィジュアルをデザインと捉えがちな間違った視点に目を取られてしまいました。しかしながら、最終的な自分にとっての、実際に業界で活躍しているデザイナーにとってのデザインとはなんなのか少し確実に理解を深めることができたと思います。 歴史的に偉大なデザイナーであるMassimo Vignelliによって書かれたThe Vignelli Canonとの出会いはこれまでの自分の中でくぐもっていたデザインに対する疑問を払拭してくれました。Vignelliのデザイナーとしての功績の中で最も勉強になったのが、彼がデザインをアートという説明のつかない抽象的な分野からの乖離を推し進め、一つの実用的専門分野へと確立を提唱したことでした。彼のプロジェクトは、傍目には「誰にでもできる」ぐらいにシンプルで無駄がない外見をしています。しかしながら、この「誰にでもできる」というのがミソで、「誰にでも理解できる」=「誰でも学ぶことができる」というデザインにおいて最も重要な基本要素を的確・綿密に実践しているのです。デザインのコアはここにあると思います。 思い返せば、2年前に本格的にデザインの授業を取り始めたての自分は芸術家でもなければデベロッパーのどちらでもありませんでした。完全に特になんの取り柄もない普通の学生だったと思います。しかしながら、そんな自分が最も興味を持って、力を注いだ勉強は、デザインの基礎を一つずつ正確に学び、実用に生かすということでした。視覚的階層化、色彩理論、ゲシュタルト心理学、タイポグラフィー、グリッドシステム、これらの一つ一つがヴィジュアルデザインにおいての基礎中の基礎であり、的確に使役することができればより効果的な成果物を生み出すことができます。これは単なるスタイルや流行りではなく、人間の視覚的・知能的能力の研究を基本に創り上げられたものであるからこそ重要なのだと思います。 自分がデザインの勉強をする上でなぜ先で述べた事柄を限りなく重視した理由はおそらくVignelliに心の底から共感したことと関連づけることができると思います。それはなぜなら、基礎というのは一つ一つが自分にとっても他人にとっても論理的に説明がつくものであるからです。 類似した例で言えば、これまで書いたデザインに関する全てのことは、文章を紡ぐこととコンピュータープログラミングをすることに同じ尺度で置き換えることが可能です。作文もコーディングもそれぞれ言語があり、基礎となるルールが存在します。これらを用いることで文章は、読み手が書き手の意図を違いなく理解することを可能にし、プログラミングはコンピューターに、プログラマーが実行してほしいと思うタスクを実行させることができます。もしもその基礎となる部分がおろそかになっている場合は、正確なコミュニュケーションをとることができなくなってしまいます。 自分のなかでこの類推を思いついた時に、なぜ自分がこれまで文字に起こして書くこと、コーディングをすることになんら抵抗なく楽しむことができたのかということに説明がつきました。基本的に全部デザインなのだと。自分以外の人に複雑に作られたサービスやシステムを解りやくす、使いやすく、楽しく。これがデザインなのだとなんとなく自分の中で定義をすることができました。 デザインに関してもう一つ重要なことが、常にあらゆる事象の関連性を考慮することにあります。先ほど述べた「複雑に作られたサービスやシステム」は、全て繋がっています。特に意識せずに生きていると毎日目に付く問題は、それ単体として存在しているように感じられます。しかしながら、結局のところ表面化している問題というものは、もっと複雑で大きな枠組みの中から出てきた問題であることがしばしばです。例えば、体調が悪くなるときというのは大抵色々な負担が連鎖的に重なって出てきます。 1つのポスタープロジェクトがあったとします。このプロジェクトの様な単発的なものは、扱う情報量も少ないので、それらの関連性に対してそこまで注意を払う必要はありません。しかしながら、大きめの印刷物になると関係性を考慮した計画はより大きな意味を持って来ます。例えば、300ページにも及ぶ教科書などの場合は、チャプターごとのタイトルの配置は同じで一方、内容ごとで明確な差異をつけなければいけません。読み手が、一瞬で理解出来るシステムを作ることが重要です。 デジタルサービスをデザインする場合には、印刷物の様な実体のかたちとしては保存仕切れない量の情報を扱うことになります。加えて、印刷物にはない、情報が瞬間的かつ相互的に変遷し続けるという大きな違いが存在します。これは基本的に個人で対応することの出来る範疇を超えている場合が多く、チームで情報に整理をすることが前提になってきます。この時にデジタルサービスの全容を視覚化したコンセプトマップ(ワイヤーフレーム)などのツールを用い、チーム内での情報共有はもとより、変わり続けるシステムの修正に役立てることができます。 長々と書いてはきましたが、正直今のところようやく自分がデザイナーとしてどうなりたいのか、自分にとってのデザインが何なのかが少しわかってき始めた段階です。幸いにもこれからサンフランシスコのDubberly Design Officeでそれについてさらに詳しく勉強して、実践する機会を与えてもらいました。この経験がどんな形で自分の未来に昇華されて行くのか楽しみなところです! P.S. Here is the link to my portfolio: akiramotomura.com Advertisements

学ぶために作る。

ケン・ロビンソン氏の「学校教育は創造性を殺してしまっている」という題でのTEDトークを目にしたことがある人はたくさんいると思います。このトークは約10年以上も前のものですが、初めてこのトークを見たときにものすごく共感して、感動したことを今でもよく覚えています。去年たまたま、自分の大学があるチコでケン・ロビンソン氏の講演を直に聴くチャンスがありました。彼の現在の教育システムが生徒から自発的に学び、自らの創造性を十分に発揮するための資源として機能することができていないという主張は、明確に現在の問題点をついた的確な指摘だと考えています。少なくとも自分自身の中では、しっくりとくる考え方であることは間違いありません。 子供の時から誰かに、教室の中に座らされてただただ授業を受けるということが好きではありませんでした。ある時父親に地元のプールへ連れて行かれ、泳ぎ方を教えようされた時も一切話を聞かずに自分が好きなようにどうやったら体を水ので動かすことができるのかを考えて、泳いでいたのを覚えています。多くの中学・高校のクラスでも、そして大学生である今でも、授業中は、特に講義をされていて、本当につまらなくて聴くに値しないときは、全く聞いていませんでした。 特に高校の時は、授業を聴くのに耐えかねて、自分で自分のその時に勉強したいと思っていたことを受けている授業に関係なく、黙々と一人でやっていました。 しかしながら、テストはなぜか好きでした。多分、テストというもの自体がなんとなく点取りゲームみたいな感覚だったからだと思います。本当にテスト前にだけ、極限まで集中して勉強していたので学校で1番にはなれませんでしたが、そこそこの成績は出せていたと思います。そして、何よりも重要だったのがテスト勉強をすることによって、目的に応じて何をどうやって学んでいけばいいのかということを自分の中でシステム化することができたということです。 という風に自身の経験と照らし合わせてみても、ケン・ロビンソン氏の主張の内容は納得させられ、考えさせられる素晴らしいTEDトークであることは間違いありません。しかしながら、この話の中に大きく抜け落ちている点があると思います。それは、彼自身が提起した問題を解決するためにどのように行動を起こしていくかという具体的な指針がないという点です。なぜ人々は、新しい知識を獲得し、自らを成長させるための学びに基づいた好奇心や創造性をこの教育システムを経て徐々に失っていくのか。なぜ人々は、他人と異なったことするということに違和感を覚え、大衆と同じ道を辿ることを良しとするようになっていくのか。どのようなシステム・基盤をを構築すれば、各個人の多様性を元にして最善の学びを支えることができるのか。自分なりに色々と思考を巡らせて見ました。   このもう一つのTEDトークは、伊藤襄一さんによる「革新的なことをしたいなら「ナウイスト」になろう」という話です。現在、日本人として初めてMITメディアラボの所長を務められています。自分の考えていること、やりたいなと思っていることになんとなく意識を張り巡らせていると人は得てして、本当に元々示し合わせてあったかのように、その時に必要な情報に出会うことができると思います。インターネットによる膨大な情報にアクセスすることができるようになったことはその偶然的な運命性の確率を飛躍的に上昇させたと思います。その感覚がまさしくこのTEDトークを見た時に感じました。 約3年前に行われたスピーチですが、伊藤氏の強調する現在のテクノロジー発展にともうなうツールや情報としての技術の民主化やイノベーションの変化に対する考察は、3年後の現在でまさに起こっているこのそのものを明確に説明したものだと思います。 前回のブログの投稿で、テクノロジーの民主化については少し触れました。それにより今までは、大企業や一部の大学機関などでしか起こり得なかったイノベーションが、さらに自分たちの手の届く範囲で起こり始めているということです。伊藤氏のスピーチは、前半部分でその変化の内容をより明確且つ端的に説明してあります。 まず初めに、テクノロジーの進歩・民主化により、イノベーションにかかる費用が大幅に現象したことが挙げられました。特にオープンソースを基本とした多くのプログラミングの世界では、どこの誰でもパソコンとインターネットさえあれば、誰でも新たな価値を創造することができるということでした。 2つ目は、テクノロジーの発展の進度が加速度的に速くなるのに伴い、これまでの予定を明確に立てるという計画行動自体が理想的ではなくなったことです。学習を手助けするための手段・資源としてのインターネットが多様化してきています。医者や看護師など大学を通しての資格を取得できる分野を除けば、何かしらのプロジェクトに取り組む際に、それを実現するために必要な知識や人材、資金を調達することが可能になりました。他のスピーチの中では、伊藤氏は先に挙げた医者や看護師、弁護士などの実質的専門業務は、一つのことに特化した人工知能による大体が可能であることに伴い、大学などを通して資格を得るためにかかる時間が減る可能性があることを示唆していました。これからは医者や看護師として責任が患者と直接的、精神的に変わる部分に重きを置いたものに変化してしてくことなども述べられていました。伊藤氏はこのような自分のニーズに応じて、柔軟に学びを進めていくことの状況を「Pull over Push」というように表現しました。意味としては、自発的に情報を取り入れる学習姿勢をPull = 引っ張る。受動的に講義などを通して学ぶ押し込み型の学習姿勢をPush = 押す。となります。 3つ目は、先ほど書いたPull over Pushから派生した「Learning over Education」というアイデアです。これは伊藤氏のスピーチの中で最も共感した内容でした。彼は、「教育は人々があなたに対して行うことだが、学びは自分が自身に対して行うことである。」というようにこのコンセプトを説明してくれました。MITメディアラボを務める彼自身は、大学中退者である異端児であったことにふれ、その自分がいかにして自らの学びを通して数多くのプロジェクト・ビジネスに触れることができたことを強調していました。スピーチの中でこれまで書いてきたポイントを効果的に説明するためにいくつかの伊藤氏自身の例が使われていました。その中の一つが2011年の東北大震災が発生し、福島原発が爆発した時にインターネットを介して、集まったプロジェクトメンバーと共に、当時の日本政府がいくら準備しても製作し、実装することができなかった「セーフキャスター」と呼ばれる放射能測定器をアメリカから企画し完成させ、データを公表することができたことをあげていました。 人工知能のにおける研究のスピードは予測できない値で加速しています。5年後には、現在就きたいと考えている仕事ができる保証はありません。しかしながら、様々なことに目を思考をはぐらせ、学ぶことを辞めていなければ必ず何かしらの解決策はあると思います。 伊藤氏のような日本人がアメリカの世界を牽引する教育機関でテクノロジー・デザインをベースとしたイノベーションを促進していることを本当に誇りに思います。これからそういったトップレベルの組織で行われた研究やデータは、大衆が使用できる形でさらに公開されていくことと思います。 しかしながら、このような活動は日本国内ではかなりマイナーなものであるように感じられます。今の社会や教育のシステムは、各個人の自由な発想や目標、多様性を軽んじ、結果的に、多くの人が体面を理由にシステムに則った「道」を辿っているように思います。これは短絡的に、アメリカのシステムが完璧で何も問題がないと言っている訳ではありません。ただ、アメリカにいてひしひしと感じることは、この国の人々(生徒・教育者を含め)は多様性が支援され、一人一人が自らの幸福実現のために最善の選択肢を見いだすことができるようにという努力・理解・機会がより多くあるということです。結果として多くのイノベーションやスタートアップはアメリカベースであることが多かったり、教育に対する支援の数が多いことは明らかです(新大統領の下ではどうなるかわかりかねますが)。 将来的には、日本に帰国するつもりでいます。その時は、まずは自分の生まれた熊本からでも、デザイナーとしてそして学び続ける者として、現在のシステムの改善に参加していきたいと思っています。

デザインで世界を良くするとは。

先週末に最後から二番目の学期を終えました。今学期中がデザインの歴史というクラスを受講していました。このクラスの講義内容自体は全く好きではなかったのですが、クラスを取るにあたって購入したMeggs’s History of Graphic Designという教科書が思いの外、興味深いものでした。正直行ってこの本を読み始める以前は、昔のデザイナーのことを勉強することの重要性はほとんどないと考えていました。だただた過去に流行ったその当時のデザインのスタイルを学ぶことに何の意義があるのかと、そう思っていました。しかしながら、この本を通して自分の考えが完全に間違っていたことに気がつかされました。 上にあるTEDのスピーカーは、ジョン・マエダ氏です。マエダ氏は、以前マサチューセッツ工科大学のメディアラボで教授やロードアイランド・スクール・オブ・デザインの大学長など数々の有名な教育機関や他ビジネス組織などで貢献をされてきた方です。これまでマエダ氏によるいくつものスピーチやプレゼンテーション、書籍などに目を通してきました。その中でも、繰り返し強調されていることは、デザイン・テクノロジー・ビジネスということなるジャンルの存在がどのように共存し、協調しあうのかという点と、その流れに伴うテクノロジー産業内でのデザイナーの需要の上昇という観点でした。 デザイナーとしてのキャリアを積むべく現在大学に通っている自分自身にとっては、マエダ氏の強調する論点はとても興味深いものがありました。専攻名としては「グラフィックデザイン」という名前の下勉強をしていますが、自分の中の「デザイナー」という定義がものすごく曖昧で不確かなものになっています。この不確定的な定義を持ってしまったという感覚は、何となくですがマエダ氏のスピーチ等を繰り返し聞いているうちに正しかったのかなという感覚になりました。 インターネット、ラップトップ、様々なソフトウェアビジネスのクラウドサービス化に伴い、多くの人が日常レベルで色々なテクノロジーに触れる機会が増えてきました。今では個人個人(自分も含む)でPhotoshopやIllustratorなどの画像編集アプリやWIXSやSquareSpaceといったいわゆるDIY (自分でやる)というトレンドを促進するプラットフォームなど数多くが存在します。こういったツールの数の上昇傾向は、これまでの見た目を良くするためだけのデザイナー(アーティスト)から仕事を奪っていうく状況を作り出しています。 マエダ氏のスピーチを初めて見つ出して聞き入っていた時は、これからの「デザイナー」の役割の拡大という内容き高揚していました。しかしながら、同時にこの「デザイン」が視覚的な美しさだけでの意味でのデザインと同じ土台に乗せられて話が進んでいる状況に困惑しました。次第に自分の中の「デザイン」の意味合いが非常に曖昧であることが原因で、頭の中をこんがらがらせているのだということに気が付き、そこから理解を深めるための終わりのない読書を最近していました。 そんな中、ポール・ランドによるデザイン思考という本を読みました。ホール・ランドは、世界で最も重要なデザイナーの一人で、アメリカにおけるモダンニズムとコーポレートアイデンティティ・デザインの先駆者としての功績を讃えられています。このデザイン思考は、ランドがまだ若い頃に書かれた本ではあったのですが、彼の推敲され、極限までに磨かれた文章とデザインに対する哲学は、彼が非凡なデザイナー、教育者、哲学者であったことがうかがえました。 如何なる形式の視覚的意思疎通の技法は、外観と機能性の体現であるべきであり、美しさと有用性の融合であるべきである。 「優れた設計図・レイアウト」を生み出すためにデザイナーがすべきことは、関連性のない要素を無作為的に見た目に良い配置をすることだけであるということは、グラフィックデザイナーの役割に対する誤った認識である。ここで暗示れているのは、このようなデザインは、単にこれらの要素を何かが起こるまで動かし続けることで達成されるかもしれないということである。最善の状況では、このプロセスには、不確定要素に対する時間のかかる挑戦と失敗の反復と認識されるかもしれないが、最悪の場合には、計画や使令、規律に対する無関心とも取られかねない。 上の2つの引用文は、ランドのデザイン思考の中で最も共感できた内容です。 ランドの本から学んだことで最もデザイナーとして重要だと感じたことは、デザインをするに際して、取り扱っている内容・プロジェクトと用いる視覚的要素の関連性を理解し、その判断がその状況下で、どのような意義があり、どのような実用性があるのかを考慮しなければならないということでした。何かをデザインするに当たって、見た目に美しあるべきではあるけれども、もしもその解決策自体が扱っている内容と全く関係がなければ、微塵もデザインの意味がないということです。 ランドは、価値があり、実用的なデザインを生み出すには、デザイナーは何かしからの心理的なプロセスと請け負った仕事内容の理解を状況に応じて、確実に行うことが必要であるの述べました。おそらくここでは、優れたコミュニケーションを駆使することの重要性を理解することでランドのように優れたデザインを実現できるのだというようなことを言っていたように感じました。何かしらの精神的な処理というような曖昧な表現を用いた理由としては、彼の生きた時代には製作したビジュアルデザインの解決策としての効果が実際にどれほどであったかという統計的結果を集計し、その後の調査や実行に反映できる技術が存在しなかったことが考えられます。それを踏まえた上でも、デザイナーはまずコミュニュケーションをそつなく確実に熟せる能力が大前提としてあることを理解しました。 現代社会は、誰でもテクノロジーの恩恵を享受することができます。マエダ氏が何度も述べていたように、テクノロジーはこれまで一部の人々が開発し、実装していたものから、誰もが使用する生活の一部・ライフスタイルへと変遷してきました。こういった状況下において、デザイナーの重要な役割が昨今急激に注目されてきています。興味深いことに、マエダ氏の強調するデザイナーの役割は、ランドが信じた美しさと実用性をつなぐというデザイナーの存在価値と共鳴します。もしもデザインが、単なる個人表現の延長線上の芸術であったとしたら、すでにこのテクノロジーの発展した社会から職業として消滅していたことでしょう。しかしかながら、実際に消滅することなく、様々な問題を解決するためのプロダクトやサービスに人間らしい感情や共感といった価値を加え、美しく実用的な解決策を提供することのできる存在であるからこそデザインの価値が再考されだしているのではないかと強く思います。 じゃあ自分は何になりたいのか。 自分なりのデザインの価値を見出せたいま、自身を「グラフィックデザイナー」として定義することは正直不十分であると感じます。まさに必要な条件ではあるけれど、十分な条件は満たせていない感覚です。これまで見つけたものの中で、一番近いと感じた名前は「multidiciplinary (interdiciplinary) designer」です。意味的には学際的なとか多分野にまたがるとかそんな感じです。一つのことに縛られて、それしか出来ないないなんてことは性に合わないし、興味のある分野での問題解決にデザインを役立てたいと感じている今の自分には、しっくりとくるものがありました。これから先は、多くのクライアントの問題や自分から新しい問題提起を行い、を々なチーム環境・役割の中で活躍していくこと念頭に行動して行きたいと思いました。

積み上げる。

前回の投稿から一ヶ月が立つ前に何かしらを書き上げようとしています。このブログ自体2年前になにかしなきゃいけないという思いつきから本格的に再開しました。当初の目的は、週一間隔で投稿して行くつもりでしたが、日本語と英語の両方でブログをすることを決めてからめちゃくちゃ自分自身を忙しくして、さらには普通に学校と仕事だけでいっぱいいっぱいになり今では、月一がやっとの状態です。それでも、今まで書きためてきた自分の文章を振り返るのはとても楽しくて、自分の中で意味があるものになっています。 前々から感じていたことではありますが、より少ない情報量でより多くの投稿をする方が、かなり自分の成長に効率的であることに最近さらに納得させられるようになりました。色々とあれこれ考えていても、結局人に伝わるような形で言語化しないことには何も意味がないことをに気がつきました。思いついた考えをノートに取らない自分にとってはなおさらです。 多くの人が自分には発想力がないとかアイデアがないとだめだとかそんなことを言っています。自分も少し前まではそう思っていたし、準備もなしに行き当たりばったりで挑戦したところで何も得るものはないと考えていました。 でも、色々やって思ったのはどんなにすごいこと言ってたって、実際に始めないことには何も達成できないし、それこそ何も得ることができません。実践に勝る学習はないと思います。 すでに証明されたセオリーや他人の知識を読書によって知ることは、未だ自分が知らない世界への窓口にはなってくれるけれど、自分自身で解釈して実際に使ってみない限り、その世界を体験させてくれることはあり得ません。頻繁に自分の考えを言葉に書き出すことは、その情報のメタ化のプロセスの一つ、実践の一部だと考えています。だから、やってみようと思います。 大学生活も気づけば残り一学期を残すのみとなりました。今まで沢山見たり、聞いたり、やってみたりしてきましたが、まだまだ不十分だと思います。今までの経験のおかげて少しはやりたいことが見えてきたし、漠然ではあるけど少しずつアイデアが具体化し始めています。いろんなことにこれか挑戦して行くことは、楽しみであると同時に少し怖くもあります。 どうしていいからよくわからないから、とりあえず計画を立てたくなることもあります。でも今まで計画通りに行ったことなんて一度もありません。いつも常に変わっている状況に対応して、どうにかこうにか目的を達成することに集中しています。その過程で不必要なものが必ず出てきて、それらを取り除いたり、変更したりすることで前進することができます。 あれこれ考えるよりも、実際にやってみることで経験したこの「どうにかこうにか」が自分の中の要らないものを一つ一つ取り除いて、最後にはシンプルで洗練された成果物を生み出してくれます。 この過程は、デザインの試して、学んで、繋いで、紡いでというデザインのプロセスによく似ています。自分はこの過程が好きだし、もっともっと積み上げていきたいと思っています。

デザイン思考。

一ヶ月以上が過ぎてしまいました。自分の考えてこと、面白いと思ったことを瞬間的に頭の中で完成させて繋いでいくことは大変な作業だとひしひしと感じます。ブログを書くときとか他に何か面白いことを思いついたとき、メモをしたりすることはあっても急ぎ足でそのアイデアを一気に形にしようとはしません。たいていの場合は、頭の中でふわふわの浮かんでいる状態を継続させます。 そんな中で一番最後に取る手段が、文字に起こすということです。自分の思っていることを言語化するという作業は、まとまりのない考えをゆっくりと平面的に繋いでくれるのにとても役に立ちます。ほんの少し前までは、この手順は書くときだけに使えるものだと思っていました。しかしながら、気がつくとデザイナーとして作業しているときにも、全く同じ方法を使っていたことを知りました。デザイナーにとって、デザインするということは、コンセプトをよりうまく、明確に伝えるために用いる最終手段であって、デザインすること自体が目的というかそういうことじゃないんだと思います。   何を始めるにしても、まずは問題提起から、誰が、どこで、どんな状況で困っているのかをはっきりとさせることが必要です。その後に、何を一番に優先して解決すべきなのか、受取り手の情報を正確に見極めた上で、最善の解決策を探る。そのあとにデザインが来る。最近、特に欧米諸国で注目されているデザイン思考というのはまさに上で説明したことをもっと細かく使い分けていくことを指します。   デザインは、人類の発展や歴史に常に一緒にあって多くの影響を与えてきたと思います。   今の世の中で、自分たちが手にしたり、食べたり、住んだり、着たりしている大抵のものは、デザインさていると言っても過言ではないと思います。地球が持つ自然だけがそれ自身のデザインのシステムの中で生み出されています(最近は遺伝子組換えをしたり、もしくは単純に破壊して人間の手によってそのシステムを変換することは可能になっていますが)。 グラフィックデザインに関して言えば、言語の誕生によって人類のコミュニケーションにおいて非常に大きな役割を担ってきたんじゃないかなと思います。自分たちがどのように考え、書き、話すという知能的な能力は、この言語的コミュニケーションによって可能になっています。言葉の違いによって、文化や伝統、そして個々人の人間性にも大きく影響しているのではないかと考える時があります。 特にグローバリズムが世の中に浸透し始めてからは、世界中の人が英語を共通の言語として学び、日本でも英語ができることがまず一つのステータスとして、持つべきスキルとして多くの人が血眼になって勉強しています。このような状況を少し俯瞰的に見直してみると、途上国・発展途上国にかかわらず、多くの人が英語を話せるようになることで、また英語を通して現地の人とコミュニケーションをとることで西洋の(英語を歴史的に母国語にしてきた国々の)文化が他の文化に大きく浸透してきているように感じます。この現象の全てに悪影響があるようには感じませんが、明らかに近代の植民地支配のような感覚で、文化的な侵略が着実に前進しているように思います。 上で少し話した通り、言葉の力は強いと思います。したがって、 タイポグラフィー 印刷物の読みやすさである可読性や、視認性、そしてその美しさを得るために、活字の配置・構成やその属性すなわち書体、字体の大きさ(ウェイト)、行と行との間隔(レディング)、文字と文字との間隔(カーニング及びスペーシング)、印刷紙面上での活字が占める領域の配置・構成(レイアウト)などを設定し、経済的に効率良く印刷物を出版すること は人間社会の言語間コミュニケーションにおいて人々の情報の認識や吸収に非常に効果的であると言えるとおもいます。その力は、新たな社会の流れを作ることができるかも知れません。 さて、なぜ自分はこんなことを書いているのか?理由は、今まで説明してきたことが自分が大学で勉強していることだからです。そして、これが自分が将来生計を立てていくために選択したスキルセットの一部であるからです。   デザインとは、自分の解釈では、 純粋な芸術ではありません。 誰でも、 何かしらを綺麗に、 可愛らしく装飾して、 イラストを描いて、 それらを「デザイン」 と呼ぶことができます。 しかしながら、それらはデザインが本当にできることの半分も達成することはありません。 デザインは、 人間が扱う全てのものを機能的にし、 親しみやすくし、コミュニケーションを可能にし、 その上で視覚的に美しいテイストを加えることができるものであると考えています。 今回の投稿はかなり普段の内容とは異なっているように感じます。ブログを始めた頃とは異なり、内容が抽象的だったり、啓発的な内容だったりしていることは確かです。しかし、気づいたことは、自分はこのブログを通して自分の頭の中を明瞭にし、目標に向かって前進するための記録をしているのだということ。 したがって、内容が自分にとっては明確でも、読む人にとっては何じゃこりゃとなることもあると思います。なので、今日は自分がまとめて言いたかったことを最も的確に表現した引用文を使って締めにしたいと思います。   「スタイルは、流行り、忘れ去られる。 しかし、優れたデザインは、言語となる。」 —マッシモ・ヴィネッリ

広げる。

こんにちは。また約一ヶ月の月日が過ぎてしまいました。2016年の夏休みは、今日を残して終わろうとしています。夏休み期間中にそれなりに多くのことをしてきたと思いますが、実際にはそれほど多くのことを成し遂げたという実感はありません。だからといって文字に起こすべきことがなかったというわけではありません。特にこの夏の間はしばらくデザインのいう枠組みから外れた活動を中心にやっていたので、実際にこのブログに載せるようなものがあまりないせいかもしれません。 何よりかもまず、就職活動をした感想があります。 選考を受けた数社と面接を繰り返して、周りの同世代と話を重ねていく中で、留学を通して歩んできた自分だけのけもの道から元の整えられた一般道に戻される感覚を味わいました。何となく心地よい気持ちになる場面もありましたが、嫌だったのは自分で考える力を奪われるように感じたこと、自分を押し殺すことを覚えなければならないのだと思わされたことでした。 昔から他の人と同じであることが、嫌いでした。小中高とそれを心がけてはいましたが、あくまではみ出さない程度に。正直に言うとかなりその辺りはビビリだったのかなと思います。日本で学校に行っている間は、周りと同じことをすることが良しとされていました。高校生までの自分は少しそれをはみ出す程度でよかったのだけれど、アメリカで多様性とか個性とかいろんな意味でぶっ飛んでいる環境にさらされてしまった今、もう元には戻ることはできないであろうとそんな感じがしています。 周りの就活生を見ていて、そして自分もやってみて、何百、何千、それ以上にある企業の中から自分に最も合うところを見つけ出し、win – winな関係を構築した上で就職するなんて、至難の技どころではないと思いました。何十個も受けた上で多くの人が1つや2つ内定をもらった中から選択していくのですから(もっとうまくやってる人もいるでしょうが)、正直完璧な条件で前に進めている人などいるのかと思う次第です。まして自分に翻っては、時間もない上、人にへつらうなんてそうそうできないし、せっかく雇っても何年かしたらやめてしまう可能性が高い扱いにくい存在でしかないので、さらに条件が厳しい。笑 条件が整った上で目的を明確にして、時間をかけて取り組まないとまずは前進できないなとそう感じました。   話は変わって数週間前、NPO団体のカタリバのボランティアの方々と一緒に、熊本地震後から行われている益城夢創塾の活動の一環で、30人程度の中学生を引き連れ集団宿泊に参加してきました。この益城夢創塾というものは、震災の影響が大きかったエリアで小・中学生を対象に継続的に行われています。自分ははじめ父親の紹介で、熊本県の行政から派遣という形でこのボランティアに参加していました。 実際に関わった生徒の中の半数以上が地震の影響で住む場所をなくして、今も避難所や仮設住宅から学校に登校している状況でした。そんな大変な中でも、少しでも地震から離れ、楽しい思い出を作ろうというのが今回の合宿の大きな目的でした。 一泊二日の合宿の初日、合宿のプログラムとして組み込まれたカタリバの活動の一つに「カタリ場」という時間がありました。この活動は、NPO団体であるカタリバが普段高校生を対象として行なっている事業の一つで、大学生が自分の人生をベースとして高校生たちに彼らの将来へ向けメッセージを送るというものです。 対象の学生は中学生でありましたが、自分の人生について話をするというチャンスを今回いただき、20分間の中で自分のこれまでの選択の数々について生徒に少し話をすることができました。人前でそれなりに準備をして話をするのはかなり久しぶりだったので最初はかなり緊張しましたが、全体的には悪くなかったかなと感じています。自分が話した内容としては、なぜ自分が学ぶことが好きなったのか、なんで留学したかったのかいうことをベースにして中学生が少しでも何かしらを受け取れるようにと考えながらデザインしたつもりではあります。しかしながら、実際に彼らがどれだけのことを自分の話から感じ取ってくれたかは、正直わかりません。 自分の地元である熊本の若い世代に何か伝えたい、元気になってもらいたいという気持ちを持って参加した合宿でしたが、実際のところ自分の方が一緒に参加した中学生から学ぶことの方が確実に多かったです。最初はめちゃくちゃいじいじしていた中学生達も慣れてくると次第に、彼らの中にあるそれぞれの多様な意見や夢の話をしてくれました。 自分が参加したスタッフの中で唯一熊本出身者であり、留学経験があり、英語を話すことができたこともあり、熊本・日本の外にでて、目標や夢を叶えたいと思っている生徒たちが質問をしてきました。夢に現実味を持たせるためにと勇気を出して質問してくる一方で、中学生達からの質問で多かったのが、「自分なんかで挑戦してできることなのであろうか?」という内容でした。小さく縮こまって、手の届く範囲で挑戦した方が安全だというような空気感を中学生ながら感じていたのだと思います。違って夢に対して自分の話をベースにしか答えることができなかったので、あまり確実なことは言えませんでしたが、彼らに対して自分がかけることができた言葉は、「やりたいと思うなら実現するまで努力すればいい」でした。勉強すればなんでもできる。本気で頑張っていれば、自然と周りからのチャンスもやってくるはずだとかなり曖昧なことを言っていたと思いますが、本心でした。 自分が中学生の時なんて、大人になって何するとか、人生で成し遂げたいことなんて特になかったと思います。ハンドボールをできていればそれでよかったし、それしか考えていませんでした。でも、今の彼らにはなんとなくだけどやりたいことも目標も見えかけている。中学生なのにそんなに自分を過小評価して守りに入る理由なんて微塵もないと思います。 やりたいことをやりながら仕事をして、きちんと生きていきたいなんて言うと「どうやるの?」とか「大丈夫?」とか言われて、自分自身でも不安になることがたくさんあります。でも実際に少し視野を広げてみれば、努力で必ず届く範囲に道はあるように思います。だからこそ勉強するし、どうすればできるかを常に考える。思考を止めません。 最近オリンピックにシーズンに乗っかり、「イチローが嫌いだ。」というキャッチフレーズを元にしたトヨタ自動車CMが流れています。その理由は、イチローを見ていると「限界という言葉が言い訳みたいに聞こえるから」「自分に嘘がつけなくなるから」「努力すら楽しまなきゃいけない気がするから」「どんな逆風もチャンスに見えてくるから」と他の四人のアスリート達からの言葉で締めくくられています。めちゃくちゃいいキャンペーンだと思いました。心に響きます。 メディアでは、多くのアスリートや多方面での成功者の最終的な結果の部分しか取り上げられません。オリンピックをテレビで見て、選手たちの成果を知るのもまさにその例の一端でしょう。しかし普通の人からは見えないところに、計り知れない努力と研鑽がなされていることを理解しなければいけません。一流の人の努力は、普段から段違いかもしれませんが、同じ人間です。その気になれば、自分でもこなすことができると思います。しかしながら、最も重要なことをその普段の努力が日々着実に積み上げられていること。塵も積もれば山となる。千里の道も一歩から。何人もこの過程なしに大きな成功はありません。 だから誰でもやれるし、一緒に合宿を過ごした生徒たちには、努力すれば絶対にできるとそれしか言えませんでした。 震災後、夏休み期間を使って自分の地元の熊本のために何かしたいと思い自分に一番向いていると思った形で始めたボランティアでした。しかし、実際には自分が何者で何をしたいかということを改めて考え直すきっかけになる時間だったと思います。 どれだけのことができたか分かりませんが、自分が関わることで中学生たちが少しでも彼らの将来について具体的な想像をすることができたのであれば幸いです。   最後に、今回偶然にもこの合宿に招待していただき、貴重な体験をさせていただいたカタリバのスタッフの皆さんに感謝したいと思います。https://www.facebook.com/katariba/?fref=ts

紡ぐ。

帰国してから約1ヶ月半経ちました。6月の初めから7月の初めまでしばらく東京付近にいて就職活動なるものをしていましたが、中々時間のかかる骨の折れる活動でした。 このブログの投稿を書く前に、もう一つ日本の就活について色々と実際に経験して思うことをまとめていましたが、途中からなんとなくやる気がなくなってしまい、書くことをやめてしまいました。ということで現在ダラダラとこの新しい投稿を書き上げているのです。 学生生活最後の夏休みを迎え、とりあえず読みたい本をできる限り買っては、のめり込むように読んでいます。帰国する度に、スイッチが切り替わったかのように毎回本を読み漁っているですが、完全に今の自分にとってはなくてはならないものへとなっているような気がします。大きな理由としては、やはりこれらの本は、自分と異なる視点、考え方、知識、経験を短時間で吸収することができるということにあります。特に何か具体的な目標があって、それを達成するために知識を集めているのではなく、もう少しフランクな感じで読んでいるだけでも、世の中の様々なアイデアや構造を理解して、そこから何かしら新しいものを生み出すようなきっかけになっています。 新しいことを知ることは、同時に知ったことによって自分がさらに何を知らないのかということを気づかされる機会にもなります。まさに「無知の知」を知るという感じでしょうか。 何れにしても本は、世の中の理を知る上で人間一人が、その人の人生のみでは体験しえない経験を学び、知ることができる最上の資源だと思います。しかも書籍の中に存在する筆者の知識・経験は、その趣旨が最も理解しやすく、興味を引く順番で構成してあります。そこには言語化された他者の経験が綺麗な流れとして存在します。 ではなぜこの平面的な一つ一つは異なる単語ごとで形成された文章が美しく感じるのでしょうか。それは、思考の整理学の著者である外山 滋比古氏によると「不連続の連続」の作用に他なりません。 ではこの「不連続の連続」とは一体何を表すものでしょうか。最も簡単にこの言葉を言い換えると、論理的な思考というものに行き着くと思います。いわゆるクリティカルシンキングというものです。クリティカルシンキングとは、英語での文章構成をする際に最も基本的で重要視されるポイントであります。この観点は特別文章を書くことだけに縛られることはありませんが、説得力のある思いや考えを整理して伝えたい時に非常に役立つものであります。 話を戻して、ライティングのクラスにおけるクリティカルシンキングに目を向けると、個人的な感想としては多くの学生がこの言葉に困惑して、なんとなく要領を得ないまま数多くの文章を書いているように感じます。 このクリティカルシンキング、または不連続の連続の仕組みを理解するには、どのようにパソコンの画面上の写真や実際に印刷された写真が構成されているのかを比較対象として考えるといいと思います。写真は、ある程度の離れた距離から見れば日常生活のある一部分を完璧に切り取った様子を映し出していることを理解できます。しかしながら、その細部までをはっきりと映し出している写真は、何によって構成されているのでしょうか。それは、虫眼鏡などの拡大レンズを使用して、その写真を非常に近距離から観察した時のみ確認できる赤や青、緑などの基本的な色の小さな集合体によって現実世界の様子を写しているのです。 ここで、とても画質の低い写真を思い浮かべてみましょう。画素数の低い画質というのは、拡大すれば拡大するほど何を写しているのか全く理解できなくなることは、容易く想像できることと思いますが、画素数の高い普通の写真と差し比べても明らかに写真の映し出す内容が鮮明でないことも想像できます。しかし、その画質の低い写真を構成する色については、こちらの方が確認できます。 さて何故にこの写真の例を、文章構成に関わるクリティカルシンキングを理解するために持ち出したのでしょうか?理由は、簡単です。写真を構成しているのは、前述の通り、小さな色の点です。これら一つ一つは、個々の色を持ち合わせており単体として存在しています。いわゆる「不連続」の状態です。しかしながら、これらの微細な点々を一つの大きな塊(写真)として理解した時、この不連続は、「連続」の状態となり、新たな意味を持ちます。 画質が低ければ、その写真の意図する景色や人物がはっきりと伝わらず、逆に高ければ、その意図を明確にかつ詳細に伝えることが可能になります。それぞれの単体である色の点が、意味をなす配置に正確に、そして詳細に並ぶことでこれを可能にするのです。 翻って、論理・文章構成にも同じことが言えます。何かの議論的な相手を説得しようとする文章を書くにあたってまず明確な結論が必要になります。写真でいうところの映し出されている対象です。さてそれを明確に述べるために何が必要か。それは、文章を持って達成しようとする目的を支えるための根拠や証拠にあたります。写真でいうと、これはそれぞれの色の点でしょう。それぞれの根拠は、不連続の状態です。書く内容自体の背景情報を鑑みなければ、全く関係のない証拠であるかもしれません。しかしながら、文章を説得力のあるものに仕上げるためには、これらの個々の根拠の点と点を線で繋ぐように、配置し、詳細に書き出すことでそれは、不連続を連続という形として昇華します。多角的な視点から、一つの統一された文章に仕上げることこれがまさにクリティカルシンキングの神髄であり、不連続を連続させるという意味であります。 ある文章や本を読んでいて、内容が全く頭に入ってこないことを経験したことはありませんか?具体的には、英語の文章を読んでいて単語が分からないので、わからない単語が出てくる度に一々辞書で調べてから読むようにすると、単語は理解できるのに文章自体が全く理解できない。 しかし、思い切って辞書引くことを止め、文章を最初から最後まで通して読むと意外にも、文章の大意は理解することができる。これもまた「不連続の連続」という現象を端的に表しています。 文字一つを取っても、単語一つを取っても、それらは究極的に言えば、単体です。いくら長々とした文章の中に埋もれているとしてもその事実には変わりありません。その文章の中で、それらの単語が配置された位置・状況によってそれらの単語は、全体の意味を生み出すために作用します。文章を読むときに、目の動きを止めずに一つ一つの単語を残像として認識し続けることで、単体同士である単語のつながりを読み取ることができます。理解し易い文章構成になっているからこそこの「不連続の連続」は、確立されます。 これまで書いてきた内容は、自分なりに先ほどの述べた「思考の整理学」という書籍を読んだ上で自分なりに整理し直し、書きまとめたものです。この不連続の連続という考え方は、単に論理を構成するためのものだけではなく、もっと多くのことに適応されるような気がしています。 例えば、イノベーションは、異なる二つ以上の領域の分野が混ざり合い、飛躍的なシナジー効果を発揮する時に生じます。これはまさに、不連続であった領域が、その連続として変化している明確な状態だと思います。 本を読み、自らの経験を通して、できる限り多くの知識を学ぶは、まず第一に重要です。しかし、今思うに、それよりもさらに重要であるのは、学び身に付けた知識を如何に繋ぎ、紡ぎ、新たなものを生み出すかということだと感じました。   学び出し、紡ぐこと。

悲観的完璧主義で、比較論的で、夢見る者。

2016年春学期が正式に終了しました。サンフランシスコ国際空港で、帰国のフライトを待つ間にブログを書きその学期の総括をするというのが少しずつ自分の中で伝統となってきたように感じます。最後のブログ投稿から一ヶ月以上の月日が経っています。学期末に向かうにつれ、本当に忙しいスケジュールの中、プロジェクトにペーパーに多くのことに追われていました。加えて、なんとも言えない困難にも遭遇して、なかなか生活の中の様々なことをバランスよくこなすことができずにいました。結果的に、ブログやその他のソーシャルメディアを更新するということが最近になるまでできませんでした。 カリフォルニア州立大学チコ校での4学期目が終了したということは、言い換えれば自分の留学生活の3分2が終了したということになります。正直に言って、この留学生活はとても刺激的で、とても大きな影響を自己の形成に与えている事実が、卒業後、帰国したときにどのように自分が進んでいくのかという未だ漠然とした現実を考えさせます。自分の周りの留学を終え卒業していく友人たちや日本の大学を終えようとしている人たちを見ていると余計にいつもの「なんとなく釈然としない」という恐怖心と焦燥感に駆られます。 21年以上生きてきて(たいしてそんなに長くもないけれど)、とても頑固で、独立心が強くて、細部にこだわり、慎重で、完璧主義で、比較論者的で、そしてひどく悲観・反骨的な性格を作り上げてきました。これらのかなり複雑な人間性が、他の大勢の人たちが辿っていく道筋を容易に受け入れることができず、自分は何か根本的に異なるのだという非常に脆く、漠然とした自分を信じたいと思いを生み出します。果たしてどのように異なっているのか、それは自分にも分かりません。 自分はしっかり考えて、物事に取り組みます。簡単には自分が携わることに関して妥協することを許しません。やるからには、出来うる限り持ちうるすべてを以ってして完璧に成し遂げたいと思います。もちろん物欲などもありますから、自分が持ち得ない道具や最先端の有益な器械など欲しいと愚痴をこぼすこともあるでしょう。先立つ困難にも弱音を吐かないことには、立ち向かう為の諦めがつきません。これはこれで、乗り越える為の過程なのだと思っています。やれば乗り越えられる。だから、できるのに挑戦すらしない人・最初から諦めている人を見ると面白くありません。それぞれに異なる目標があるので、一概に一般化は出来ませんが。 色々と複雑な要素や社会的潮流の中で、多くの人が自分の思いを押し殺し、平均化へと結果的に流れていくこの世の中で、いつまでも自分自身であり続け、まさに「人生を謳歌すること」。これが、人生の目標であり、達成する為にあらゆる手段を考え抜いて取り組むべきことだと思います。難しいけれど、不可能ではないはずです。 およそ一ヶ月前、日本において地震観測が始まって以来、最大級の大きさに近い地震が地元・熊本を直撃しました。自分の生まれ育った、親しみのある故郷が地震によって壊れていく様を見て、何も受け付けることが出来なかった自分がいたことを鮮明に記憶しています。パソコンの前に何十時間も座り、ニュースや地元の情報に一心不乱にかじりつき週末を過ごし、その時熊本にいなかった自分をひどく嫌悪しました。 しかしながら、いくら感傷的になったところで出来ることは限られていることは明らかだったので、一旦落ち着き自分がやるべきこと、集中すること、出来ることを考えました。そして、実行しました。   興味深いことに、今回の地元での地震は、今まで自分の頭の中にはなかった奉仕活動(ボランティア活動)に対する肯定的な感情を生み出してくれました。自分の生まれ育った熊本であるからこそ、合理的に理由付けをすることが出来ました。かなり個人的な寛容性から生まれた気持ちではあるけれど、このようにして行動の動機は生まれるのかなと思います。今はまだどのような行動が自分に一番適していて、効果的に貢献することが出来るかを検討している段階であると同時に、自らの将来の為にも多くのことをこなしていかなければならない時期です。どこまで出来るかわかりませんが、何もしないよりは確実に良いと思います。   この一時帰国の中、可能な限り大好きな熊本の為に頑張ろうと思います。

人生の段階。

こんにちは!前回の投稿から2週間と数日ぶりくらいになります。 毎回この書き始めでブログを書いているのですが、よくよく考えると後から読んでいるときにやはり自分がどのくらいの頻度でブログを更新することができていたかを知ることができるいい印になることに気がつきました。 ブログを更新しつつ毎回考えていることがやはり、週一ペースで更新したいとおもうのですが、日常に降りかかってくる宿題や仕事や怠惰さや眠気など理由をあげればきりがなくなかなか思い通りには物事は進まないものです。ブログを書くにあたって一番大変なことは、なんといってもネタ作りにあると思います。自分なりにもブログを更新する際に少しこだわりがあってできるだけ意味のある興味深い内容のものを書きたいと思っています。頭の中にあるアイデアを文章に書き起こして表現する事自体は、自分の好きな事の分野でもありますし良いのですが、全く書く意味のないものを羅列してぐだぐだ書くようなことはできるだけしたくないと思っています。 したがって、このブログのタイトル(日本語の方ではなく、英語の方)は「Things That I’ve Learned This Week.」というふうになっています。実際的には、毎週ブログを書いてシェアするには程遠い感じではありますが、努力中です笑 さて、今回ブログを新たに書いているという事は、つまり、書きたいとおもう事が見つかったという事になります。内容的に面白いかどうかは正直分かりませんが、自分自身で面白いと思ったのでまあいいです笑。 (画像はグーグル検索より) 今日の内容は少し哲学的なものになる予定なので、説明しながら意味がわからなくなる箇所があるかもしれませんが興味を少しでも持ってもらい、共感してもらえたら幸いです。 今学期にとっている科学の哲学(Philosophy of Science)というクラスで、2週にわたってトーマス・クーンの科学革命の構造という本と読破いたしました。正直たくさん知る由もない科学の発明や発見が山のようにクーン自身の理論を説明するために多用されていたので読むのには大分苦労しました。 簡単に彼が言及していた事をまとめると「パラダイムシフト」によって引き起こされる科学革命の構造について詳しくまとめられているものでした。クーンが提唱したこのパラダイムシフトとは、ある科学分野においてその中心的理論・枠組の役割を果たすパラダイムが時が経つにつれて別の新たなより洗練されたパラダイムに移行するというアイデアです。詳しくはもう少しこれから書いていく内容で説明してみようと思いますが、このクーンが詳細に描いた科学革命の構造という考え方は、一人の人間の人生における成長と合致するものがあるという点においてとても興味深いものでした。 1・通常科学の黎明期と人生における出発点 クーンは、ある一つの分野の科学が、パラダイムの発見によって確立された科学分野になる以前の状態を「Pre-Science」と呼びました。この段階では、まとまりのなり様々な理論や検証が次々と湧き上がってきている状態で、特定の分野として科学は存在しません。いわゆる人生でいう目標がない状況です。特に何もやりたいことがなく(少し違う気がするけれど)自分自身がどんなことに関して興味関心があり、どうのようにしてそれらを深めていけばいいかなどなんとなく考えているような時期であると思います。この段階は人生でいうとおそらく高校生や大学生、ちょうど思春期を終え、少し先を見据えてあれこれ考え始める時期であるでしょう。大学などの教育機関もしくは実際にアルバイトや仕事を始めて今までより多様なバックグランドを持つ個々人と出会い自分の頭の中にある考え方や性格に非常に影響を受けやすい時期であると思います。このPre-Scienceの状態は、パラダイムの発見によって次の段階へと移行します。つまり、これを人生に置き換えると、上記でも述べたように、自分自身の興味関心・情熱を注ぐことができる目標を発見することにつながります。 2・通常科学と漸進的な成長 この通常科学とは、クーンが説明した科学革命の構造の中で一番安定し、ほとんどの分野の科学がこの段階に属しています。パラダイムによって科学としての枠組みを確立することができた通常科学の段階においてその科学コミュニティーに属する科学者たちは、パラダイムによって予測された理論や仮定の検証に従事します。クーンによるとこの通常科学における理論の検証は、パラダイムというおおきな枠組みの中で欠けているピース埋め合わせていくパズルのような作業であると説明しています。個人的にはこの段階を自分の人生と照らし合せて比較するならばおそらく自分の興味関心のあることを発見して、少し形として目標が見え始める時期に当たるのではないかと思っています。この段階では、その目標の達成に向けて少しずつ具体的なスキルや知識を身につけ出したり、様々な人々から話を見聞きして自分の中で不足している情報を集めて前進している時であると考えることができます。何人かの人は実際により具体的な行動をを起こし始めているかもしれません。 3・危機科学と自己改革の必要性の認識 この第三段階に相当する「危機科学」とは、通常科学において用いられていたパラダイムに様々な問題点が発見され、そのパラダイムを基盤に研究をしていた科学者たちの中に疑念や不安が高まり始めた時に起こる段階です。クーンはこの問題点のことを「Anomaly」、異常という表現の仕方をしていましたが、今回のブログにおける類推では、問題・疑問点くらいで考えるのがちょうどいいのかなと感じます。人生におけるこの段階はおそらく、自らが今まで正しいと思い込んで進んできた道のりやスキルなどを身につけるために用いてきたアプローチの方法に疑問を抱き、さらなる変革の必要性に迫られている時期なのではないかと感じます。例えば、今まで大学内の学校生活では成績もよくとても優れた能力を持っていると自他共に自信を持っていたけれど、実際に場所を変えて働き出したり、さらなる勉学を進めようとした時に周りに自分よりもはるかに優れた他者が存在することに気づき、自分の中で何かしらの変革をもたらすことで成長を促す必要性があることに気がつくといった状況がこの段階に当てはまると思います。 4・異常科学と自己変革 (Photoshopにてデザイン) 異常科学とは、クーンによって提唱された科学革命の構造の中で、元の状態(通常科学)へと戻る前の最終段階と位置付けられています。この異常科学とは、大雑把にまとめるとクーンの理論の中で中心的なアイデアである「パラダイムシフト」が起こるこのことを指します。前段階で生じたあるパラダイムにおける問題点を解決すべく新たなパラダイムの構築が始まります。クーンによればこのパラダイムシフトは、特定のゴールに基づいた成長ではないというふうに定義されています。なので新旧のパラダイムの間に相互性は存在せずお互いに全く異なる次元に存在するもであるということが述べらています。これまでに彼の本を読み、勉強をした多くの哲学者がこのパラダイムシフトはより洗練されたパラダイムを持つことを目的としてるはずだという批判をしているように、今回のブログの内容における「パラダイム」は、先ほども書いたように個々人の人生における目標であるというふうに考えているのでクーンの定義からは少し異なります。実際に前の段階で明らかになった問題点というとのは、人生に置ければいわば壁に直面したという状況だと思います。それを突破するために今まで繰り返してきたルーティーンを見直して前に進む。これが人生におけるパラダイムシフトだと思います。上にある写真はそういった意味で「新たな本棚に乗り換えること」としました。今まで積み上げていた努力の成果を元にもう一段階先のステージに進むという意味です。 人間は今まで説明してきた段階を繰り返すことで確実に前に進んでいくものであると思います。自分に不足している知識や経験、物事の考え方がはっきりしてくる度にこの段階を重ねることでより思慮深く、幅広い柔軟な考え方のできる人へと変化していくのだと思います。もしも自分と同年代の友人の中に並外れた実力や考え方ができる人がいるならば、それはおそらく繰り返し高められきた友人自身のパラダイムの存在があるのでしょう。 積み重ねの努力が一番自分の夢に近づくための道標であり、すべてのことは積み重なっていくため無駄にはなりません。一般的にいう「成功者」とは、自分の見つけた興味や目標のために試行錯誤を重ね、努力を積んできた人たちのことをさすのだと思います。したがって、人生には逆境的な状況(危機科学&異常科学)が幾つも存在し、それらを乗り越えていくことで成長し前に進めるのですから、めげずに頑張ろうという、それが今回のブログの目的です。笑 小難しいことをだらだらと書いてしまいましたが、少しでもこのブログの趣旨が伝われば幸いです。

我が道を行く。

こんにちは! 最後に書いたブログから随分と日にちが経ってしまいました。 2016年度の春学期はもう既に始まってから半分が過ぎて、今は10日間の春休み中です。2日前くらいにポートランドへのロードトリップからチコへと帰ってきたところです。今回の旅行も自分の視野を広げるのにとても役立つ経験になったと思っているところです。 ポートランドはオレゴンにある比較的大きな都市でありながら、他の大都市とは異なり、街並みの統一感や清潔感、近郊の町からのアクセスもとても優れた住み心地の良さような都市である印象を受けました。ポートランドにおいても車が主流の交通手段のようでしたが、街全体には市電も整備され、自転車の貸し出しなどもごく普通に普及していたことから、こう言った公共交通機関にも力を入れている様子が伺えました。 今回のポートランド滞在の中で、最も驚いたものの一つに街中にいくつも点在していたカフェがあります。それらのカフェは普段の生活では、なかなか思い至らないコーヒーの価値に焦点をおいていたように感じます。これらのコーヒーを一般的な日用品としてではなく、少し高級感のある代物へと昇華させようという流れを、「サードウェーブコーヒー」と呼ぶそうです(ウィキペディア調べ)。個人的には、スタバも十分にハイエンドなコーヒーチェーン店だと思っていましたが、世界中に展開されたフランチャイズとは異なり、各店舗の地元での直接的な経営によるそれぞれのコーヒーに対するこだわりが見えるカフェでした。例えば、今回訪れたCOAVA COFFEEは、倉庫をぶち抜いてカフェにするという斬新な内装のデザインに加えて、様々な工夫がされたコーヒーを提供していました。 旅行に一緒にいった友達がものすごくコーヒーに詳しかったので、コーヒーのテイスティングなどを一緒にするうちになんとなくコーヒーの味の違いなどわかってきたような気がします。笑 このブログの冒頭で書き始めたように、最後の更新から約3ヶ月の月日が経っています。深い理由は特になく、ただひたすら学校生活に忙しくなかなかブログを更新する時間を確保することができませんでした(実際には少しくらい時間あった気がします笑)。 忙しかった理由としてはまず、今学期からCMT Designという学校のデザインスタジオでグラフィックデザインのインターンシップを始めたことがあります。このインターンはとても個人的には充実した経験です。自分の仕事は、キャンパス内のほとんどの公式なポスターやパンプレット、マガジンの編集など多岐に渡ります。大学のグラフィックデザインのプログラムが少し、ウェブなどのデジタルな方面に重きを置いているので、このインターンを通して得ることのできるデザイナーとしての基本であるプリントプロダクションを経験できることは、後々の自分に大きな強みになると思います。加えて、英語での同僚やクリエイティブディレクター(上司)、自分のクライアントとの意思の疎通がこんなにも難しく、楽しいものであるとは全く期待していなかっただけに、苦しいながらも楽しんでいます。グラフィックデザイナーとしてのスキル向上ももちろんですが、ビジネスでの英語能力の向上にも確実に役立っていると日々感じています。中でも特に嬉しかったことは、自分がこのCMT Designスタジオ史上初の留学生であるということです。今まで他に留学生を雇ったことがないと言われた時はビックリでした笑。さらに、最近気づいたのですが、NIC時代にこのチコの説明会の時に用いられたパンプレットを製作していたスタジオもこのスタジオであったのでさらに驚きでした笑。今学期はまだ週12時間しか働いていませんが、来学期から20時間とさらに時間が増えるので忙しくなること間違いないですが、卒業するまでにかなり実践に近い経験を時間をかけて積むことができるので、楽しみです。 二つ目の理由は、もちろん現在履修している5つのクラスです。今学期から全てのクラスがアッパーレベルと呼ばれる3、4年生向けのクラスになり、難しさ的にも、時間的にも今までより少し大変です。5つのうち4つが自分のメジャーのクラスで1つが一般教養のクラスです。3つのメジャーのクラスは、基本的にプロジェクト中心の楽しいクラスなのですが、問題は残りの二つのクラスです。 一つは、コミュニケーションクリティシズムと呼ばれるクラスで、あらゆるメディアに関して、深く考察して、クラス内で説明された特定の方法を用いて、そのメディアの社会的な意味を発見していくみたいな内容です。普段から自分たちが触れているニュースや映画など異なるジャンルのメディアを小さな構成要素へと分解して、表面上からは読み取りづらい深い意味を考察するというアイデア自体はものすごく興味深いもので、個人的にもメディアに対する判断の仕方が変わりました。しかしながら問題は、内容よりも、教授が生徒に書いて欲しいペーパーの内容にものすごく細かいこだわりがあることです。毎回、その小さなこだわりにを明確にするために様々な説明がなされるのですが、そのたびになんとなく「結局どうすればいいんだ。」的な感想に行き着いてしまいます笑 もう一つのクラスは、科学の哲学?みないな内容のクラスです。まあ名前からも予想がつく通り、内容的にも非常にややこしいのですが、個人的な問題はそこにはありません。一番困っているのは、クラス内で出てくる哲学者の文章の書き方と使用されている言葉です。哲学者という人種はどうしても、彼らの頭の中にあるはっきりしないことを口から出まかせに、一般的に用いられないような難しい言葉を使って表現したがる人たちなのだと思います。こういった不必要な理解に時間を要する言葉達の所為で、無駄に時間を費やす羽目になっています。しかしながら、皮肉にも、そういった言葉の言い回しになんとなく感化されている自分がいることは否めません。笑   まあとにかく今回こういったなんとなくのブログの内容を書いているのには、一つ理由があります。 卒業まで残り一年となった今現在、周りを見渡せば同世代の友達はすでに、いわゆる「就活生」をしています。いろんなところから話を見聞きしたりしているうちに、同じことをしていない自分がいる状況に対して少し、自分の中で焦燥感があることのだということに気がつきました。おそらく今自分と同じように留学をしてたり、また就活とは別の選択をしている人たちは、似たような感覚に見舞われているかと思います。 今の自分は、自分のやりたいと思ったことに集中しています。そしてこの一所懸命さは、留学を通しての自分の世界観の変化を象徴しているように感じます。 「自分の目標を達成するための道筋は決して一つではないこと。」 おそらく今ようやく自分のやりたいことの方向性が見えてきて、未だにかなり具体性には欠けるけれど、その方向性を頼りに確実に前進している感覚はあります。それが今回の旅行だったり、今やっているインターンだったり、留学だったりで、一つ一つのことが可能性を広げてくれて、非常に有意義なものだと思います。   だから結論として、目標さえしっかりしていれば(多分たとえしっかりしてなくても)、それにアプローチする方法は一つじゃなくて、無限にあるとはずだということです。自分のやってることを信じて、周りに惑わされず今やるべきをに集中する。こういう気持ちの持ち方大事だとそう思います!  

折り返し地点。

秋学期が終了して約一週間が経ちました。この一週間は、まるで学期中に張り詰めていた糸が切れたかのように怠惰な生活を送っていました。何度か気合を入れて、生産性のあることをしようと試みましたが、結局うまくいかず終い。 今回の冬休みの間の帰国に伴い、少し待ち時間ができたので2015年度秋学期、加えて、正式に自分自身の留学生活の折り返し地点となる今を簡単に振り返ってみたいと思います。 この学期は正直言って、めちゃくちゃ早く時間が過ぎ去りました。これほど時間が早く過ぎた記憶が今までありません。そんな凝縮された時間の中で、多くのことを今回は乗り越えなければなりませんでした。   新学期になり、始めのうちは友達を作ることをしなければなりませんでした。大学でグラフィックデザイン専攻としてプログラムに入るためにパスしなければならなかったポートフォリオレビューへ向けての準備もしましたし、実際は夏ごろからですが、少しずつ真剣かつ具体的に卒業後について考え始めました。 そして、大学内にあるデザインスタジオで1年半の長期インターンシップを獲得するために人生初の英語面接へ向けて、履歴書を制作したり、自分のいままでの作品をまとめたりもしました。 もっと多くのことを乗り越えてきた気がしますが、まとめるとだいたいこんな感じです。一応自分なりに計画性をもって一所懸命一つ一つのステップを踏んできたつもりです。でも、なんか頑張ってきた結果、誰かがそれを知っていて、見いていてくれて、自分が予想していたこと以上に自分の目標に前進することができたと感じています。いよいよ本格的に物事が進み始めたような気がします。   留学当初から、というよりもそれよりもずっと以前から、自分の成すこと・やることについて他人と常に比べて生きてきていたような気がします。元より存在するはずのない「同じものさし」を用いて、自分は他人より優れている・劣っていると無意味な比較をしていたように思います。 そして、本当にごく最近になって、世の中には本当に色々なことなる経歴、考え方、宗教、目的を持った人々がいて、それぞれが自分の望む高みに向かって努力をしているのだということに気がつきました。その異なる個人における努力には、微塵の優劣も無く、ただ愚直に各々の目標に向かって費やすことこそがすごく大切なことであると思いました。それらに勝つ必要はないし、最初から勝てる道理なんてないです。 自分自身を知り、計画性を持って行動し、日々の努力を積み重ね、自分の好きなことに没頭する。これが大事だし、実践していきたいと思いました。 こんな風に思うようになるに至ったのは、今までの人生の中で、特に留学生活の中で出逢った人達から影響を受けてきたことが大きいと考えています。こんなにも人との出会いが自己形成において大きな影響を与えるのだというように思ったのは初めてです。 自分の人生に関わってくれた人に本当に感謝の気持ちで一杯であると同時に、自分自身も彼らの人生のある一点において多かれ少なかれなんらかの影響を与えることをできたことを嬉しく思います。 さあ、いまようやく日本に到着しました。いまはうんと羽を伸ばしてまた頑張るために蓄える時だと思います。 これからもいろんなことを経験して、感じたことを書き続けていこうと思います。   皆さんもよい年末を過ごしてください! P.S.今回のブログを今学期中に製作した自分の幾つかのデザイン作品を紹介して終わりたいと思います! ストップモーッション(Visual Narrative) 情報のレイアウトがブラウザのサイズを変えることで切り替わります。 ウェブベースのインフォグラフィックです。クリックしたり、マウスを都市の上に持っていくことで新たな情報を表示するインタラクティブ要素があります。

経済的な視点からグローバルについて考えてみる

2015年度秋学期が残り2週間で終わりとなります。今は留学生活で二回目のThanksgiving Break中です。今週いっぱいまで休みで、アメリカでは一年の中で最も大きな祝日の一つであります。明日から金曜日まで前の学校の友達と少し旅行を計画していたのですが、それに至るまでの毎日が長くて長くて暇で仕方がありませんでした。 うすうす感じてはいましたが、この休みの最初の方で宿題を片してしまおうととっても意気込んでいたのですがとうもこうも結局いつものように怠惰な生活を送ってしまい、無駄に過ごしてしまいました。なので昨日の昼から起きて、少しでも生産性のあることをしようと思い、このブログを書き始めることから始めました。 前回からの投稿から2週間ですが、その間に学んだことについて書いていきたいと思います。 いくつか前の投稿で、自分は存在しているのかそれともいきているのか?という名で、読書のすすめについてすこし個人的にふれたので、自分でも実践することにしています。結構読んだんですけど、今回は下にある写真の本の内容の説明と自分なりの考察を踏まえつつ書き進めていきたいと思います。 今回紹介する本は「なぜローカル経済から日本は甦えるのか」という富山和彦さんによるPHP新書です。この本の中では、日本のGDPの産業別構成比率、なぜそのような構成比になっているのか、少子高齢化社会に伴う経済の問題、それらをどのような態度と施作をもって解決していくべきなのかについてとてもわかりやすく説明してありました。 この本の中で最も面白かった点は、普段は大きく一つに捉えている日本の経済という枠組みを、グローバルとローカル経済という二つの異なる経済圏に分別して話が進められていたところです。 経済産業省によれば、日本のGDPのうち70パーセント以上が第三産業、つまりサービス業などを中心に構成されており、残りの30パーセントは製造業やテクノロジー系の産業で構成されています。著者は、この70パーセントを占めている産業は、日本国内のみで経済活動を行っており、これがまさに先ほど分類されていたローカル経済に当たることを強調していました。また多くが、中小企業や個人経営で行われているビジネスです。 残りの30パーセントを占めるのは、トヨタやソニーなど誰もが名前を思い浮かべる大企業の収益からなるもので、これらの大企業は主にグローバル経済圏にて経済活動を行っています。 ご存知の通り、人・金・ものはグローバル経済圏では、貿易に伴う関税の引き下げ協定や、工場の海外移転化、運輸手段の発展により、頻繁に行き来するようになっています。基本的にグローバル経済では、資本主義の原則に基づき、完全競争の市場です。企業は常にライバル企業との競争に望むことになります。これらの競争を勝ち抜くために、比較優位の望める製品・事業に資産を投資し、常に開発とイノベーションを進めていくことで、生産性や効率を高めていくことが重要になってきます。 一方で、ローカルな経済圏では、一つ一つのビジネスは不完全競争の中で、経済活動は行われます。その土地に基づいた商品や、立地条件、サービスの質などによって差が生じてきます。具体的に言えば、熊本県にあるスーパーは、東京都にあるスーパーと競争を強いられる場面は決して起こらないということです。労働力としての人々の移動は、起こらないことが普通ですし、一般的な技能をもって従事する仕事が多数です。しかし、GDPの比率から考えると、このローカル経済が、日本の70パーセントの雇用を創出しているのです。 未だまでは全く気が付きもしませんでしたが、日本人の7割以上の人が第三次産業に従事しているという事実には驚きでした。なぜなら、いまや多くの人がグローバル化の時代だと、何処かしこ地元の焼肉やや、普通のスーパーまでもがグローバル化しなければならないかのような口ぶりでいろんなところで語られているからです。いろんな考え方をミックスさせすぎてて、大きな漠然とした考えかたとして受け入れていたような気がします。   最近の日本の人口比率を見ていると確実に外国人旅行者や定住者の割合が増えてきて、世界共通語としての英語のニーズは非常に高まってきているのは事実です。 しかしながら、経済的な観点から見て、地元のローカルな経済圏でビジネスを行うレストラン、病院、洋服屋、美容室、ショッピングモールなどは英語化と異文化への理解の拡大以外にグローバル化する必要があるのでしょうか?この本からの答えは、NOです。規模を全く大きする必要はありません。 このようにこの本のなかで紹介されていた基本的な内容を理解していくにつれて二つ大きな疑問が湧き上がってきました。 1・まず初めに、現在の日本の就活システムは果たして、グローバル化を進める大企業にとって効率的で、競争力を高めることができているのか?といことです。 この本のなかで述べられていたように、グローバル経済圏では、日々が厳しい競争で、そのなかを生き抜いていくためには、より生産性を上げ、事業・人員・製造を効率化していく必要があります。これまでいくつかのブログの記事で日本の就職活動について書いてきましたが、日本の新卒就職活動は本当に大型スーパーでの買い物に似ている気がします。新卒採用に力を入れている会社は、新卒の学生たちに会社において即戦力となるような技術力・経験をあまり期待していないように感じます。なぜなら、企業は一度に多くの新入社員を採用した後に、研修を通して彼らに企業が身につけてほしい技術を身につけてもらう時間を確実に設けているからです。多くの人にとってその期間で身につけることができるスキルや経験は、働いている企業にとって役に立つ偏りが強いものになることが多いために、転職を個人的なキャリアなどを考えたときに不利に働くことが多いように感じます。 今回読んだ本の中で使用されていたデータによると、97パーセントの日本企業におけるCEOは、その企業の中で昇格してCEOのポジションについているという実情があるそうです。加えて、それらのうち、75パーセントは一度も現在働いている会社以外での経験が全くない人であると書かれていました。これは諸外国の一般的な多国籍企業の平均からいうと非常にかけ離れたものとなっています。 個人的な意見になりますが、この新卒一括採用のシステムは、経済的な生産性・効率性の面から考えて、ミスマッチを起こしているような感覚がします。なぜなら、世界の経済競争の中で戦っていく大企業にとって、そこで働く人材は最も大きな比較優位の要素の一つだからです。かなり厳しめに聞こえるかもしれませんが、このような競争を勝ち抜いていく上で、企業がより優れた人材を雇い、切り捨てを進めていくことはある程度は必要なように感じます。この点を考慮すると、転職がしやすい労働環境・スキルが必要だという発想は、とても合理的な気がします。 自分の中で思うのは学生時代のうちに、社会にでてから役に立つ実学的な力を身につけていくということは、将来的に自らの選択肢を広げるという面においても非常に重要だと考えます。もちろん実際に社会人になってからも多くのことを学ぶと思いますし、実際に大学生活4年間で身につけられることをほんの数ヶ月で学ばなければいけない状況になることもあると思います。しかしながら、社会に出た段階で自分のやれることがわかっているのといないのでは、ただの会社の歯車になるのか、それとも自分の道を確実に進むためのステップなのか大きく違ってくると思います。 現在の日本では、いい大学に行けば、いい企業に就職できて一生安泰だ的な感覚でいる大学生が多いと思います。実際にそのようなシステムで社会が機能しているし、効率もいいからそうするのだろうと思うで、特に否定することはありません。しかし、名前のために4年間を費やして、卒業したときに「何ができるの?」と聞かれて、はっきり答えられないようなことは自分はしたくはないと考えます。皆さんは、どう思いますか? 2・2つ目の質問は、将来的に自分はどちらの経済圏で自分のキャリアを追い求めていくのかということです。 この本を通じて、いままでなんとなく大雑把に捉えていたグローバルとは一体なんなのかということが経済の面では、はっきりしました。そして、このことを知ったことで将来の自分の働き方に少し幅が見えてきたような気がします。この本の中で述べられていたグローバル経済とローカル経済。どちらで自分がどんなスキルをもって経済活動をしようが、確実になんらかの影響を与えることができると考えると少しわくわくするような気がします。 2020年には、東京でオリンピックも開催されるので、それに向けて日本政府もインフラや言語の面で準備を進め、外国人観光客の数も増えることが予想されています。日本経済が少し前向きに出発する一つの大きな要因となることでしょう。 日本のGDPの役7割が日本国内のサービス業(医療なども含む)などから成っていることを考えると、このオリンピックに乗じてローカルの経済圏でビジネスを始めるのもなかなかいい考えだと思います。日本には新幹線もありますし、最近は本当にやすい飛行機便もあります。地方にとっては、旅行者を呼び込むのに絶好のチャンスであるのは間違いありません。そして、地方出身の自分にとって自分の地元に貢献するというのは、人生のうちの一つの大きな目標でもあります。 二つの経済圏に区別され、経済について説明を進めてきた本でしたが、覚えておくべきは、これは完全に隔絶された二つの世界なのではなくてお互いに相互作用しているということです。そうであれば、というかデジタルメディアが大量の情報を創出し、発信しているこの21世紀では、この二つの経済圏の間に存在するようなものがあるように感じます。それは自分が2年前に不完全なまま放置しているあるプロジェクトに似ているような気がします。 まだまだいろんなことを学んで、感じて、右往左往しながら前に進んでいるような感じですが、自分の学びをこのブログで言葉にすることで少しでも、読んでいただいた方の刺激になればと思います。 何か質問などあれば、どうぞ!!