自己目標マッピング(メタ+アクションレベル)

前回の投稿で、とりあえず30歳あたりまでに達成しておきたいことリストとして書き出してみました。

1 — 楽しく働くこと
1.1 —
あらゆることをデザインすること
1.2 —
共想と協創をを実践すること
1.3 —
デザインを通して学ぶこと
1.4 —
デザインに対する理解を広めること
1.5 —
タイポグラフィーを研究していくこと

2 — 本拠地を築くこと
2.1 —
住む場所を決めること
2.2 —
健康的な食事をすること
2.3 —
書斎を持つこと

3 — 深い人間関係を構築すること
3.1 —
デザイン(に限らず)仲間を増やすこと
3.2 —
誰かのメンターであること

このリストを作り上げたときに、いろんな場面で使用されるマズローの欲求5階層説の図と非常によく似ている事に気がつきました。


1 — マズローの欲求5段階説

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オリジナルのモデルから編集

自分のやっていることの目的に合わせるためにオリジナルのマズローのモデルに少し調整を加えました。

これから先の話で使用して行くモデルの数々はおそらくオンライン上で閲覧する行為に最適化されていないので、PDF版を後からアップロードしておこうと思っています。もしも興味がある人はダウンロードしてみてください。

このマズローが掲げたモデルの中には大きく分けて基本欲求、心理欲求、自己実現欲求の三つの欲求の種類があります。土台となる階層の欲求を満たすことでより高次元の欲求の実現を可能にすることをこのモデルを通して理解することができます。


2 — 自分の欲求階層

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自分のメタレベル目標をマズローのモデルに当てはめてみる

マズローの元々のモデルに自分が前回の投稿で書き出した目標を一つづつ欲求の種類に分けたのちに当てはめてみました。書き出した目標に付けていたリストの番号を残したのには意図があります。

この番号は、前回の投稿を書いている際に無意識的に情報を整理するために付けたものでしたが、改めて考えてみると、この番号は自分の中の欲求の順序付けをする役割を果たしていたような気がします。

順序としては、自己実現欲求が一番高く、その次に基本的欲求、最後に心理欲求という形になります。これは明確に基本欲求と心理欲求を満たすだけでは、自分は生活に満足することができない、もしくはその他を多少おろそかにしてでも自己実現の欲求を満たす傾向にある性格であると判断することができます。


3 — 自分の欲求階層の時間軸

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時計回りに90度回転

ここからが今回の考察の興味深い点です。

元々高次元の目標を実現するためにどこから手をつけて良いかいまいちよくわかっていなかったので、マズローのモデルを使って低次元目標の順序を探し出すということをしていました。

自分の欲求階層のモデルを作った後にしばらくぼーっと眺めていたときに、時計回りに90度回転させることでこのモデルが目標達成の時間軸に変化するという事に気がつきました。モデルのタイポグラフィーに変更を加えてみるとこのようになりました。

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初めのうちは、時間軸の長さに合わせてモデルを調整したいたのですが、疑問が生じました。

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矢印の長さの違いが、時間の幅を表しています。

オリジナルのマズローのモデルに戻って考え直してみます。低次元の欲求が高次元の欲求を支えるというこの関連性は、自分が思いついた時間軸におけるようなくっきりとした境界線をの存在を肯定しませんでした。むしろ、欲求ごとの階層は、流動的で、互いに影響を及ぼしあっているということが理解できます。そこで考え直したのが上のモデルです。異なる欲求は、同時に同じ時間軸に存在しながらも、異なる時間の幅で廻転します。

この考えは、Stewart Brandのペースレイヤーモデルを元にしたものです。

なんとなくの思いつきで始めたこのフレームワークは、前回書き出した高次元目標をどの順序で取り組んで行くべきかという大まかな答えを導き出してくれました。しかしながら、詳細なプロセスを考え抜くのには不向きであることも発見しました。個人的にはそれでいいような気もしています。なぜなら、未来のことは、しばしば頭の中であれこれ考えてみるものですが、結局は現在頑張っていることの延長線に存在するものであり、大きな目標の指針さえ整っていれば大丈夫だと思ったからです。


4 — 自己目標マップ(メタ+アクションレベル)

とりあえず今回のエクササイズを通して、どのメタレベルの目標から手をつけていけば良いのかよいうことがはっきりしたので、もう一歩行動を堀りさげてリストアップしておきたいと思います。

1 (2)本拠地を築くこと
1.1
(2.1)住む場所を決めること
1.1.1 —
日本に帰国すること
1.1.2 —
どの市町村、都道府県に住むか決めること
1.1.3 —
デザインを実践している仕事を探すこと、もしくは自分で始めること
1.1.4 —
自分の条件にあった物件を見つけること (通勤時間、値段、フロアプランなど)
1.1.5 —
家具を揃えること

1.2
(2.2)健康的な食事をすること
1.2.1 —
キッチン周りの器具を揃えること
1.2.2 —
良い地元の食材が手に入るスーパーを見つけること
1.2.3 —
料理をするルーティンを確立すること
1.2.4 —
新しい料理のレシピに挑戦すること

1.3
(2.3)書斎を持つこと
1.3.1 —
現在所持している本を日本に持ち帰ること
1.3.2 —
仕事用の机と本を置くための部屋を確保すること
1.3.3 —
室の良い本棚を買う又は作ること
1.3.4 —
良い書籍を常に探すこと
1.3.5 —
洋書を低価格で輸入する手段を発見すること

2 (3)深い人間関係を構築すること
2.1
(3.1)デザイン(に限らす)仲間を増やすこと
2.1.1 —
デザインを実践している会社で働くこと
2.1.2 —
能動的にネットワーキングをすること
2.1.3 —
様々なプロジェクトに関わり、多様な人と協創する機会を作ること
2.1.4 —
自分のネットワークを日本に加えて、海外にも拡げて行くこと

2.2
(3.2)誰かのメンターであること
2.2.1 —
常に社会的、経済的、ビジネス関連のプロジェクトに従事すること
2.2.2 —
オンライン上の露出を増やしていくこと
2.2.3 —
デザインの修士号を取得すること?
2.2.4 —
学習に役立つ情報やツールを常に集めておくこと
2.2.5 —
サービスやプロダクト開発のチームを牽引していること

3 (1)楽しんで働くこと
3.1
(1.1)あらゆることをデザインすること
3.1.1 —
全てのプロジェクトをデザインプロジェクトとして取り組むこと
3.1.2 —
デザインの実践者としての専門を見極め、磨くこと
3.1.3 —
デザインセオリーやそれに関連する技術を常に学ぶこと

3.2
(1.2)共想と協創を実践すること
3.2.1 —
自分の人的資源を最大限に活用すること
3.2.2 —
他の職種の言語に対する理解を深めること
3.2.3 —
会話を円滑に進めるための司会進行能力を高めること
3.2.4 —
多様な意見を受け入れ、柔軟に思考できる態度であること
3.2.5 — 
サービスやプロダクト開発のチームを牽引していること

3.3
(1.3)デザインを通して学ぶこと
3.3.1 — 
デザインセオリーやそれに関連する技術を常に学ぶこと(プログラミングを含む)
3.3.2 — 
サービスやプロダクト開発のチームを牽引していること
3.3.3 —
たくさん思慮深い質問をすること
3.3.4 —
自分の学びをきちんと記録しておくこと
3.3.5 —
多様な意見を受け入れ、柔軟に思考できる態度であること

3.4
(1.4)デザインに対する理解を広めること
3.4.1 —
デザインに関する学びや考えをブログなどに書き留めること
3.4.2 —
デザインの価値をいろんな人と語ること
3.4.3 — 
サービスやプロダクト開発のチームを牽引していること

3.5
(1.5)タイポグラフィーの研究をすること
3.5.1 —
タイポグラフィーに関する理論や技術を学び続けること
3.5.2 —
常にタイポグラフィーに心がけて創作をすること
3.5.3 —
タイポグラフィーの歴史をきちんと学ぶこと
3.5.4 —
タイプに関するを本を読むこと
3.5.5 —
日本のタイポグラフィーを学ぶこと


5 — まとめ

アクションレベルの目標を決める最中に気づいたことがありました。それは自己実現の目標が抽象的すぎることに加えて、自分がデザインについて勉強したいことしか語られていないことでした。では、それだけ自分が心髄するデザインで何をしたいのか。改めて考えてみると、自分はおそらく以下のようなことを実現していきたいと思っています。

1 — 日本の教育と学びの環境を再デザインすること

2 — 日本のローカル経済と海外のグローバル経済とをつなぐ持続可能なシステムをデザインすること

3 — 人々が義務付けられている法的、経済的、社会的、医療・福祉的な手続きの大幅な簡素化を実現するシステムをデザインすること

4 — 世の中に存在する多くのネガティブフィードバックループのシステムを理解し、可視化し、解説していくこと

5 — 歴史に学び、記録をつけること

6 — 人々が集まり、個々人のプロジェクトに取り組めて、積極的にアイデアを共有することができるスペースをデザインすること

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自己目標のマッピング(メタレベル)

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d.school @ スタンフォード大学

2018年が始まったので、今のうちに少し大きめのやりたいことリストを作っていきたいと思います。2017年を通して、思考を書き出して、まとめて、きちんとした形として保存して行くことの大切さを改めて確認しました。これから書き出していくものは、「30歳くらいまでに達成しておきたいこと」を大きく抽象的なレベルでまとめたものです。30歳といえば、約7年後のことになります。


1 ー 楽しく働くこと

働くことは、これから先の人生の中で最も重要な要素の1つになってくると思っています。理由の1つとしては、働くことを通して達成していきたいことが数多くあるからです。加えて、働くことは、当分の間は生計を立てていく上で主要な方法になって行くと思っています。これから先10年の間にどれだけ人工知能などの技術がどこまで進歩するのか、正直なところ全く見当もつきませんが、若干反射的にはなるとしても、適応していけるように常にアンテナを張っていく予定です。投資関連は、少しずつ知識を蓄えていく予定ですが、今のところそこまで重要項目ではありません。

1.1 — あらゆることをデザインすること

デザインは、自分にとっては宗教的な存在です。デザイン以外のことを仕事にするつもりは、全くありません。しかしよくよく考えてみると、自分のデザインの定義は、平面からメタ思考、行動心理学、社会学、経済学などかなり多くの要素を含んでくるので多くの事に関わっていくことができると考えています。特にヒューマンセンターデザインの考え方を用いて、人々の日々の様々な行動プロセスの向上を達成するために、効率的なテクノロジーの使用方法を考えていきたいとおもいます。分野としては、インタラクション、コミュニケーション、インフォメーション、サービス、そしてシステムズデザインを極めていく予定です。

1.2 — 共想と協創を実践すること

仕事をしていくにあたって1つこれだけは絶対にしたくないということがあります。それは、独り善がりに、独りで働くことをです。

デザインというプロフェッションに従事するにあたり、大前提として、個人の力のみで複雑な課題を解決することはほぼ不可能です。ソフトウェアやIT関連のデザインだけをとっても、学際的な観点から多様なフィードバック+会話を重ねていくことで、今までに無かった革新的な解決策を提供することが可能になります。

自分にとってのデザイナーの役割は、この多様な背景を持つチームメンバーの間を取り持つ司会進行ような役だったり、カタリスト的な存在だと思っています。

これから先、自分のネットワークを少しずつでも拡げていくことも自分の望む環境を実現するために必要になってくると思います。

今も仕事の中でひしひしと感じていますが、人が集まる行動が鈍くなりやすく、政治的な衝突に発展しがちですが、仲間が集まることでいい化学反応が起こることは確かです。

1.3 — デザインを通して学ぶこと

学ぶことは、デザインをしていれば自然と起こることです。しかしながら、以前はいいデザイナーの要素は優れた技術を習得していることにあると考えていました。技術面はある程度までは必要でありますが、それだけでは不十分だと理解し始めました。

優れたデザイナーとしての必要十分の条件は、常に学び続けられることにあると思います。特に応用民族学、認知心理学、ビジネス、そしてデザインに関する検証された理論や手法、プロセスなどを理解していくことが重要だと考えます。なぜならこれらは、どれだけ新たなテクノロジーが発達しようとも、人間が存在する限り柔軟な適用や応用が可能な英知だと考えるからです。

1.4 — デザインに対する理解を広めること

デザインの価値をデザイナー以外の人々と共有することには大きな意味があると考えています。誰もがデザインの力を通して、複雑な社会の中に存在する困惑を減らしていく努力をすべきだし、できるはずです。自分の意見では、デザインは最も倫理的かつ思慮深い人間の行いの実行方法の1つです。

この目標の達成にはいくつか方法があると思いますが、当面はブログに書き記したりしていくことが第一歩かなと思っています。

大学というシステムがこれから先どのように進化するのか、それとも現状維持をしつつ形骸化し廃れて行くのかわかりませんが、デザインの修士号を海外で取得するし、人に直接教えるという選択も面白いかなと考えています。

1.5 — タイポグラフィーを研究していくこと

自分がタイポグラフィーに対してもつ尊敬と関心の程度を、言葉で表すのは難しいです。文字は、人類史の中で間違いなく1、2を争う発明だと思います。言語特有のグリフが、音を出し、言葉を成し、文を形作り、文章を書き出し、思考を共有可能な話に変化させることができます。タイポグラフィーは、きちんとした規則に基づき丁寧な文字の配置・構成を考慮する事により、話の根幹をより効果的に伝えることを可能にします。タイポグラフィーは、おそらく人生を通して極めていきたいことだと思います。


2 — 本拠地を築くこと

今思うとなかなか信じがたいのですが、最近になってようやく自分にとって「家」だと呼べる場所があることがどれだけ重要なのか理解しました。自分が育った実家は、ある意味では「家」なのですが、それよりも自分自身で築き上げることに重きを置きたいと思っています。

サンフランシスコは、正直常軌を逸するほどの家賃で、日本で考えられるようなワンルームのアパートすら借りることが叶わないくらい高いです。現在は、とても住み心地の良いゲストハウスの一室を長期で借りて暮らしている状況ですが、どうしても何となく日々に感じる自分の部屋じゃないという違和感を拭い去ることができません。

正直なところ、自分の本拠地といっても一軒家を建てるつもりはないし、まして大きな部屋を借りるつもりもありません。それでもまともなキッチンと寝室、書斎くらいはあるような感じのスペースでは欲しいと考えています。

2.1 — 住む場所を決めること

本拠地となる「家」を築くにあたって重要になってくるのが、どこに住むのかという問題です。元々留学をした目的が、これまでに見たことのない世界を経験し、自分の個性とスキルをしっかり磨き、面白い変化を日本にもたらすことができる人間になるという感じのものでした。なのでそのうち日本のどこかに住むことになるでしょう。

2.2 — 健康的な食事をすること

おそらくこの項目は、2の目標をしっかりと達成することで同時に実現される望みなのかなと思います。外食をするのは楽しいし、料理はしなくていいし、片付けもしなくていいでいいことばかりです。しかし、かなり経済的には楽しくないです。

大学の教授のおうちにお邪魔して、みんなで料理をして、みんなで一緒にご飯を食べるということがこんなにも楽しいものであるということをしみじみと実感しました。週末には、パン作りなんかをしていきたいです。とりあえずどこに住むかを決めることからかなと思います。

2.3 — 書斎を持つこと

個人的にものすごく達成したいこととして、家にきちんとした書斎が欲しいということがあります。日本で購入できる本は、ものすごく経済的で魅力的なのですが、アメリカでしか購入できないデザインの本には、ものすごい職人気質を感じています。特に、西洋のデザインに関する知識は、奥が深く、学問的かつ科学的なアプローチが取られている感じがとても魅力的です。

あと10数年の内に、紙の本は情報発信の媒体として完全に役割を終えると思います。しかしながら、時代に左右されない人間の知恵を収める箱としては、デジタルの媒体が代替し得ない価値を、少なくとも自分の中では、持ち続けるんじゃないかなと思っています。


3 — 深い人間関係を構築すること

2017年は、人間関係がどれだけ重要な要素なのかを教えてくれた1年でした。

自分自身が、興味があることを一所懸命頑張り尽くしたい普通の人間だと気がつけたこともまた大きな気づきでした。ネットワーキングを通して、新しい人脈を増やしていくことにより、多彩な影響を受けたり、与えたりしながら成長していくことができるのだと思います。

この目標を掲げるにあたって、ジョン前田氏の「My Four Rules」(1999)にあるルールを常に心がけていきたいと思います。

  1. 人の陰口を言わない
  2. 消極的攻撃的な振る舞いを避ける
  3. 心を広く持ちつつも、優柔不断にならない
  4. 失敗にした時は、潔く認め、謝罪し、前進する

3.1 — デザイン(に限らず)仲間を増やすこと

似たような興味や心構えを持つデザイン仲間を持つことは、なかなか重要になってくると思います。お互いに切磋琢磨できるという点に加えて、自分の内側から湧き出すモチベーションを保つのにも有効なはずです。デザイン仲間といっても、デザイナーの仲間が欲しいというわけでは別段なく、デザインというアイデアを一緒に共有して、実践してくれる人のことを指しています。

3.2 — 誰かのメンターであること

これも人間関係を築く1つの方法なのかなと思っています。おそらく自分から率先して生徒を探すことは無いような気がしてますが、もしも頼まれたときにはいつでも準備万端でありたいと思います。


長々と自分のやりたいことを書き上げてみた後、これらメタ目標は、順番を少し変えてみるとマズローの欲求5段階説によく似ているなということに気が付きました。もしもそうだとすると自ずとどの順番で目標を達成していけば良いかということが見えてくるはずです。

その後に、これらのメタ目標を実行可能な具体的な行動計画に落とし込んで行く必要があると思います。はっきりした時間軸を決定する必要はないかなと思いますが、どのような行動をとればいいのかをなんとなくでも把握しておければ、そこから新たな行動指針が見えてくると思います。

 

2017年を振り返って

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正直なところ何処から書き始めたらいいのか全く検討もつきません。
前回の投稿からかなり時間が経っていて、どれだけのことが今年1年を通して起こったのかまとめ始めると大変なことになる気がします。それでも2017年は残り数日で終わることになるし、ここら辺で一つ区切りとして一年を振り返ってみるのはいい事なのかなと思います。

まあとりあえず、この1年間を一言で振り返ると自分の人生の中で1、2位を争う静かな波乱の1年間だったと宣言できます。

まずはじめに、今年で大学を卒業したことがあります。これでとりあえずしばらくの間は、形式上「学生」という肩書きはなくなりました。卒業式は感動したというよりは、これまでの3年間を通して達成してきたこと・学び、身につけてきた知識や知恵に対して誇らしく、これらかの新生活に向けて自信と高揚感に満ち溢れていたという感じでした。今振り返ってみると高々学生生活を通して身につけた知力のみを持ってそれなりのデザイナーに成長できたなどと思うのは、なかなか未熟で、ナイーブだったと思います。自分の拙さと未熟さを卒業して働き始めてから痛烈に実感しました。

 

次に、仕事以外の生活で文字通り独りになったという事です。
大学に居た時は、週末に友人と集まったり、教授やクラスメートに励まされながら勉強することは今思うと感動的なくらい簡単でした。そんな環境に居ながら自分自身さえモチベーションを保つ事ができれば、なんでも達成する事ができると思っていましたが、今となっては考え方は違います。確かに独りになる時間というのは、自分の生活や目標に向けての進捗状況をしっかり振り返るのに欠かす事ができません。しかしながら、定期的にきちんとしたフィードバックや共に切磋琢磨する仲間の存在というのもまた欠かす事の出来ない大切な要素であると気づかされました。結局のところ人間は社会的な生き物であり、自分もまたその一人である事を実感しました。

今年後半を通して感じていた自分のデザイナーとしての未熟さが生み出す劣等感と社会的なつながりの欠落に対して正直どうすればいいのか全くわかりませんでした。精神的にかなりまいっていました。

自分にとってこのブログを含めたソーシャルメディアは、これまで常に毎日の生活の中を通しての発見、成長や成果などを共有するための場所でした。その縛りを乗り越えて自分の抱え込んでいたフラストレーションを共有する事が出来ませんでした。

夏が終わる頃に、サマーインターンをしていたデザインオフィスから期間延長のオファーをいただきました。OPT期間の全てをこの素晴らしい環境で過ごす事がどれだけ恵まれたことで、確実に自分のこれからのキャリアにいい影響を与えてくれることを理解しながらも、オファーに対して即断で「Yes」の返事をする事が出来ませんでした。振り返ってみると、その時は今の環境から逃げ出して日本でデザイナーとして雇ってもらうにはどうすればいいかで頭がいっぱいでした。アメリカにいながら、アメリカに気持ちはありませんでした。シリコンバレーで働いて、デザインを学ぶ経験が自分に面白いクオリティを付け足してくれることをすら理解していませんでした。

正直に言って、9月からまた残りのOPTの期間を自分独りで乗り越える自信がありませんでした。自分は多分今も昔も自分の悩みをフランクに打ち明けることが得意ではありませんでした。大抵の場合は、様々なことに対して悲観的だったり、懐疑的になったりしていたと思います。そのせいで友人を不愉快な気持ちにさせてしまったこともあるかもしれません。

あるときに自分の両親で電話をかけました。自分だけでフラストレーションを抱えきれなくなっていました。両親は心配して、きつかったらとりあえず帰ってくればと言ってくれました。なんでもない一言だったけれどなにか自分の中で吹っ切れた気がしました。自分にいつでも帰って休める場所があって、別に今の悩みが世界の終わりじゃなくて、自分の人生なんだからなんでも好きなように好きなタイミングで挑戦する選択肢があるじゃないかという当たり前のことを思い出す事が出来ました。色んな友達にもメッセージを通して悩みをとにかく聞いてもらいました。するとみんな意外と快く聞き入れてくれると共に、彼ら自身の悩みも自分と共有してくれました。なんかすごくありがたかったし、自分だけが悩んでいるわけではなく、他の皆んなも悩みながら前進しているのだということを知り、悩んでいること自体に劣等感を感じる事がなくなりました。

はっきりと一言でまとめることのできる選択ではなかったけれど、仕事を続けることを決断する事が出来ました。そして、オフィスに頼んで地元に一度帰省する期間をいただくことも出来ました。

10日間程度の短い帰省だったけどたくさんのことをしました。地元の旧友たちと話をする事が出来たし、少し車で遠出してリフレッシュする事も出来ました。認定NPO法人カタリバで活動されている知り合いの方から、帰国のタイミングよく行われる予定だったイベントに誘われて参加しました。皮肉なことに人生の岐路とも呼べる状況で色々と悩んでいた自分が、同じように自分の将来に悩み、受験を目の前に控えた中学生たちに自信を持って取り組めばなんとかなるなんて話をしていました。どう考えても自分自身に言い聞かせていたようにしか思えません。

これリンクがそのイベントの様子をあとでまとめていただいた記事です。

サンフランシスコに戻ってきてから4ヶ月が経ち、2017年も終わりを迎えています。今年になって浮かび上がってきた色々な問題は完璧に解決したかというとそんなこともないと思います。それでも、今はなんとなくなんとかなる的な自信があります。自分の人生なのだし、自分で決めて進んでよくて、それでいてその決断を支えてくれる家族や友達が自分にはいます。それに今はどうやって相談すればいいか知っています。

友人の一人が、自分が日々の生活・仕事を通して学んだこと、デザインについてなどもっといろんな形でシェアしていくべきだと言ってくれました。自分はそんな説法をするような資格もなければ力もないという言い訳をしましたが、彼は「少なくとも俺の役には立っている。」という風に説得してくれました。自分のための記録としても、自分の書き出した文章を読んで価値を見出してくれるかもしれない人のためにもこれかも書くことを続けていこうと思います。2018年は、デザイナーとしても人間としての学びを続けるとともに、そのプロセスを確実に書き記していこうと思います。

それでは良い年末を!

新生活に

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Akira Motomura and graduating students in the College Of Communication And Education (CME), College Of Natural Sciences (NSC) were honored during their Commencement Ceremony on Friday, May 19, 2017 in Chico, Calif. (Jason Halley/University Photographer)

California State University, Chicoをコミュニケーションデザイン・グラフィックデザインの学位で卒業しました。卒業クラス全体と学部から一つずつ賞をいただいた結果が、この卒業式の写真のメダルの正体です。三年間で卒業するというNICを修了した時点での予定通りでアメリカでの大学生活を終えることができました。最後の学期は、これまでと比べ物にならないくらいとても多忙なセメスターでした。ほぼ毎日ラボに深夜まで残って勉強をしていましたが、意外とそれほど嫌いというわけではありませんでした。

振り返ってみてやはり自分自身の中で興味深かったことは、最終的に自分がこれほどデザインという分野にのめり込むことができたということでした。実際にメジャーの授業を取り始める前から持っていたデザインに対する考え方というのは、あながち間違えてではなかったという風に思っています。最初は自分もアートとしてのヴィジュアルをデザインと捉えがちな間違った視点に目を取られてしまいました。しかしながら、最終的な自分にとっての、実際に業界で活躍しているデザイナーにとってのデザインとはなんなのか少し確実に理解を深めることができたと思います。

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Graduating students in the College Of Communication And Education (CME), College Of Natural Sciences (NSC) were honored during their Commencement Ceremony on Friday, May 19, 2017 in Chico, Calif. (Jason Halley/University Photographer)

歴史的に偉大なデザイナーであるMassimo Vignelliによって書かれたThe Vignelli Canonとの出会いはこれまでの自分の中でくぐもっていたデザインに対する疑問を払拭してくれました。Vignelliのデザイナーとしての功績の中で最も勉強になったのが、彼がデザインをアートという説明のつかない抽象的な分野からの乖離を推し進め、一つの実用的専門分野へと確立を提唱したことでした。彼のプロジェクトは、傍目には「誰にでもできる」ぐらいにシンプルで無駄がない外見をしています。しかしながら、この「誰にでもできる」というのがミソで、「誰にでも理解できる」=「誰でも学ぶことができる」というデザインにおいて最も重要な基本要素を的確・綿密に実践しているのです。デザインのコアはここにあると思います。

思い返せば、2年前に本格的にデザインの授業を取り始めたての自分は芸術家でもなければデベロッパーのどちらでもありませんでした。完全に特になんの取り柄もない普通の学生だったと思います。しかしながら、そんな自分が最も興味を持って、力を注いだ勉強は、デザインの基礎を一つずつ正確に学び、実用に生かすということでした。視覚的階層化、色彩理論、ゲシュタルト心理学、タイポグラフィー、グリッドシステム、これらの一つ一つがヴィジュアルデザインにおいての基礎中の基礎であり、的確に使役することができればより効果的な成果物を生み出すことができます。これは単なるスタイルや流行りではなく、人間の視覚的・知能的能力の研究を基本に創り上げられたものであるからこそ重要なのだと思います。

自分がデザインの勉強をする上でなぜ先で述べた事柄を限りなく重視した理由はおそらくVignelliに心の底から共感したことと関連づけることができると思います。それはなぜなら、基礎というのは一つ一つが自分にとっても他人にとっても論理的に説明がつくものであるからです。

類似した例で言えば、これまで書いたデザインに関する全てのことは、文章を紡ぐこととコンピュータープログラミングをすることに同じ尺度で置き換えることが可能です。作文もコーディングもそれぞれ言語があり、基礎となるルールが存在します。これらを用いることで文章は、読み手が書き手の意図を違いなく理解することを可能にし、プログラミングはコンピューターに、プログラマーが実行してほしいと思うタスクを実行させることができます。もしもその基礎となる部分がおろそかになっている場合は、正確なコミュニュケーションをとることができなくなってしまいます。

自分のなかでこの類推を思いついた時に、なぜ自分がこれまで文字に起こして書くこと、コーディングをすることになんら抵抗なく楽しむことができたのかということに説明がつきました。基本的に全部デザインなのだと。自分以外の人に複雑に作られたサービスやシステムを解りやくす、使いやすく、楽しく。これがデザインなのだとなんとなく自分の中で定義をすることができました。

デザインに関してもう一つ重要なことが、常にあらゆる事象の関連性を考慮することにあります。先ほど述べた「複雑に作られたサービスやシステム」は、全て繋がっています。特に意識せずに生きていると毎日目に付く問題は、それ単体として存在しているように感じられます。しかしながら、結局のところ表面化している問題というものは、もっと複雑で大きな枠組みの中から出てきた問題であることがしばしばです。例えば、体調が悪くなるときというのは大抵色々な負担が連鎖的に重なって出てきます。

1つのポスタープロジェクトがあったとします。このプロジェクトの様な単発的なものは、扱う情報量も少ないので、それらの関連性に対してそこまで注意を払う必要はありません。しかしながら、大きめの印刷物になると関係性を考慮した計画はより大きな意味を持って来ます。例えば、300ページにも及ぶ教科書などの場合は、チャプターごとのタイトルの配置は同じで一方、内容ごとで明確な差異をつけなければいけません。読み手が、一瞬で理解出来るシステムを作ることが重要です。

デジタルサービスをデザインする場合には、印刷物の様な実体のかたちとしては保存仕切れない量の情報を扱うことになります。加えて、印刷物にはない、情報が瞬間的かつ相互的に変遷し続けるという大きな違いが存在します。これは基本的に個人で対応することの出来る範疇を超えている場合が多く、チームで情報に整理をすることが前提になってきます。この時にデジタルサービスの全容を視覚化したコンセプトマップ(ワイヤーフレーム)などのツールを用い、チーム内での情報共有はもとより、変わり続けるシステムの修正に役立てることができます。

長々と書いてはきましたが、正直今のところようやく自分がデザイナーとしてどうなりたいのか、自分にとってのデザインが何なのかが少しわかってき始めた段階です。幸いにもこれからサンフランシスコのDubberly Design Officeでそれについてさらに詳しく勉強して、実践する機会を与えてもらいました。この経験がどんな形で自分の未来に昇華されて行くのか楽しみなところです!

P.S.

Here is the link to my portfolio: akiramotomura.com

学ぶために作る。

ケン・ロビンソン氏の「学校教育は創造性を殺してしまっている」という題でのTEDトークを目にしたことがある人はたくさんいると思います。このトークは約10年以上も前のものですが、初めてこのトークを見たときにものすごく共感して、感動したことを今でもよく覚えています。去年たまたま、自分の大学があるチコでケン・ロビンソン氏の講演を直に聴くチャンスがありました。彼の現在の教育システムが生徒から自発的に学び、自らの創造性を十分に発揮するための資源として機能することができていないという主張は、明確に現在の問題点をついた的確な指摘だと考えています。少なくとも自分自身の中では、しっくりとくる考え方であることは間違いありません。

子供の時から誰かに、教室の中に座らされてただただ授業を受けるということが好きではありませんでした。ある時父親に地元のプールへ連れて行かれ、泳ぎ方を教えようされた時も一切話を聞かずに自分が好きなようにどうやったら体を水ので動かすことができるのかを考えて、泳いでいたのを覚えています。多くの中学・高校のクラスでも、そして大学生である今でも、授業中は、特に講義をされていて、本当につまらなくて聴くに値しないときは、全く聞いていませんでした。

特に高校の時は、授業を聴くのに耐えかねて、自分で自分のその時に勉強したいと思っていたことを受けている授業に関係なく、黙々と一人でやっていました。

しかしながら、テストはなぜか好きでした。多分、テストというもの自体がなんとなく点取りゲームみたいな感覚だったからだと思います。本当にテスト前にだけ、極限まで集中して勉強していたので学校で1番にはなれませんでしたが、そこそこの成績は出せていたと思います。そして、何よりも重要だったのがテスト勉強をすることによって、目的に応じて何をどうやって学んでいけばいいのかということを自分の中でシステム化することができたということです。

という風に自身の経験と照らし合わせてみても、ケン・ロビンソン氏の主張の内容は納得させられ、考えさせられる素晴らしいTEDトークであることは間違いありません。しかしながら、この話の中に大きく抜け落ちている点があると思います。それは、彼自身が提起した問題を解決するためにどのように行動を起こしていくかという具体的な指針がないという点です。なぜ人々は、新しい知識を獲得し、自らを成長させるための学びに基づいた好奇心や創造性をこの教育システムを経て徐々に失っていくのか。なぜ人々は、他人と異なったことするということに違和感を覚え、大衆と同じ道を辿ることを良しとするようになっていくのか。どのようなシステム・基盤をを構築すれば、各個人の多様性を元にして最善の学びを支えることができるのか。自分なりに色々と思考を巡らせて見ました。

 

このもう一つのTEDトークは、伊藤襄一さんによる「革新的なことをしたいなら「ナウイスト」になろう」という話です。現在、日本人として初めてMITメディアラボの所長を務められています。自分の考えていること、やりたいなと思っていることになんとなく意識を張り巡らせていると人は得てして、本当に元々示し合わせてあったかのように、その時に必要な情報に出会うことができると思います。インターネットによる膨大な情報にアクセスすることができるようになったことはその偶然的な運命性の確率を飛躍的に上昇させたと思います。その感覚がまさしくこのTEDトークを見た時に感じました。

約3年前に行われたスピーチですが、伊藤氏の強調する現在のテクノロジー発展にともうなうツールや情報としての技術の民主化やイノベーションの変化に対する考察は、3年後の現在でまさに起こっているこのそのものを明確に説明したものだと思います。

前回のブログの投稿で、テクノロジーの民主化については少し触れました。それにより今までは、大企業や一部の大学機関などでしか起こり得なかったイノベーションが、さらに自分たちの手の届く範囲で起こり始めているということです。伊藤氏のスピーチは、前半部分でその変化の内容をより明確且つ端的に説明してあります。

まず初めに、テクノロジーの進歩・民主化により、イノベーションにかかる費用が大幅に現象したことが挙げられました。特にオープンソースを基本とした多くのプログラミングの世界では、どこの誰でもパソコンとインターネットさえあれば、誰でも新たな価値を創造することができるということでした。

2つ目は、テクノロジーの発展の進度が加速度的に速くなるのに伴い、これまでの予定を明確に立てるという計画行動自体が理想的ではなくなったことです。学習を手助けするための手段・資源としてのインターネットが多様化してきています。医者や看護師など大学を通しての資格を取得できる分野を除けば、何かしらのプロジェクトに取り組む際に、それを実現するために必要な知識や人材、資金を調達することが可能になりました。他のスピーチの中では、伊藤氏は先に挙げた医者や看護師、弁護士などの実質的専門業務は、一つのことに特化した人工知能による大体が可能であることに伴い、大学などを通して資格を得るためにかかる時間が減る可能性があることを示唆していました。これからは医者や看護師として責任が患者と直接的、精神的に変わる部分に重きを置いたものに変化してしてくことなども述べられていました。伊藤氏はこのような自分のニーズに応じて、柔軟に学びを進めていくことの状況を「Pull over Push」というように表現しました。意味としては、自発的に情報を取り入れる学習姿勢をPull = 引っ張る。受動的に講義などを通して学ぶ押し込み型の学習姿勢をPush = 押す。となります。

3つ目は、先ほど書いたPull over Pushから派生した「Learning over Education」というアイデアです。これは伊藤氏のスピーチの中で最も共感した内容でした。彼は、「教育は人々があなたに対して行うことだが、学びは自分が自身に対して行うことである。」というようにこのコンセプトを説明してくれました。MITメディアラボを務める彼自身は、大学中退者である異端児であったことにふれ、その自分がいかにして自らの学びを通して数多くのプロジェクト・ビジネスに触れることができたことを強調していました。スピーチの中でこれまで書いてきたポイントを効果的に説明するためにいくつかの伊藤氏自身の例が使われていました。その中の一つが2011年の東北大震災が発生し、福島原発が爆発した時にインターネットを介して、集まったプロジェクトメンバーと共に、当時の日本政府がいくら準備しても製作し、実装することができなかった「セーフキャスター」と呼ばれる放射能測定器をアメリカから企画し完成させ、データを公表することができたことをあげていました。

人工知能のにおける研究のスピードは予測できない値で加速しています。5年後には、現在就きたいと考えている仕事ができる保証はありません。しかしながら、様々なことに目を思考をはぐらせ、学ぶことを辞めていなければ必ず何かしらの解決策はあると思います。

伊藤氏のような日本人がアメリカの世界を牽引する教育機関でテクノロジー・デザインをベースとしたイノベーションを促進していることを本当に誇りに思います。これからそういったトップレベルの組織で行われた研究やデータは、大衆が使用できる形でさらに公開されていくことと思います。

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色は異なっても同じだし、個性が違っても人間であることに違いは無い。

しかしながら、このような活動は日本国内ではかなりマイナーなものであるように感じられます。今の社会や教育のシステムは、各個人の自由な発想や目標、多様性を軽んじ、結果的に、多くの人が体面を理由にシステムに則った「道」を辿っているように思います。これは短絡的に、アメリカのシステムが完璧で何も問題がないと言っている訳ではありません。ただ、アメリカにいてひしひしと感じることは、この国の人々(生徒・教育者を含め)は多様性が支援され、一人一人が自らの幸福実現のために最善の選択肢を見いだすことができるようにという努力・理解・機会がより多くあるということです。結果として多くのイノベーションやスタートアップはアメリカベースであることが多かったり、教育に対する支援の数が多いことは明らかです(新大統領の下ではどうなるかわかりかねますが)。

将来的には、日本に帰国するつもりでいます。その時は、まずは自分の生まれた熊本からでも、デザイナーとしてそして学び続ける者として、現在のシステムの改善に参加していきたいと思っています。

デザインで世界を良くするとは。

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まだ先は長い。

先週末に最後から二番目の学期を終えました。今学期中がデザインの歴史というクラスを受講していました。このクラスの講義内容自体は全く好きではなかったのですが、クラスを取るにあたって購入したMeggs’s History of Graphic Designという教科書が思いの外、興味深いものでした。正直行ってこの本を読み始める以前は、昔のデザイナーのことを勉強することの重要性はほとんどないと考えていました。だただた過去に流行ったその当時のデザインのスタイルを学ぶことに何の意義があるのかと、そう思っていました。しかしながら、この本を通して自分の考えが完全に間違っていたことに気がつかされました。

上にあるTEDのスピーカーは、ジョン・マエダ氏です。マエダ氏は、以前マサチューセッツ工科大学のメディアラボで教授やロードアイランド・スクール・オブ・デザインの大学長など数々の有名な教育機関や他ビジネス組織などで貢献をされてきた方です。これまでマエダ氏によるいくつものスピーチやプレゼンテーション、書籍などに目を通してきました。その中でも、繰り返し強調されていることは、デザイン・テクノロジー・ビジネスということなるジャンルの存在がどのように共存し、協調しあうのかという点と、その流れに伴うテクノロジー産業内でのデザイナーの需要の上昇という観点でした。

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モリサワポスターのパロディー(部屋のサイン)

デザイナーとしてのキャリアを積むべく現在大学に通っている自分自身にとっては、マエダ氏の強調する論点はとても興味深いものがありました。専攻名としては「グラフィックデザイン」という名前の下勉強をしていますが、自分の中の「デザイナー」という定義がものすごく曖昧で不確かなものになっています。この不確定的な定義を持ってしまったという感覚は、何となくですがマエダ氏のスピーチ等を繰り返し聞いているうちに正しかったのかなという感覚になりました。

インターネット、ラップトップ、様々なソフトウェアビジネスのクラウドサービス化に伴い、多くの人が日常レベルで色々なテクノロジーに触れる機会が増えてきました。今では個人個人(自分も含む)でPhotoshopやIllustratorなどの画像編集アプリやWIXSやSquareSpaceといったいわゆるDIY (自分でやる)というトレンドを促進するプラットフォームなど数多くが存在します。こういったツールの数の上昇傾向は、これまでの見た目を良くするためだけのデザイナー(アーティスト)から仕事を奪っていうく状況を作り出しています。

マエダ氏のスピーチを初めて見つ出して聞き入っていた時は、これからの「デザイナー」の役割の拡大という内容き高揚していました。しかしながら、同時にこの「デザイン」が視覚的な美しさだけでの意味でのデザインと同じ土台に乗せられて話が進んでいる状況に困惑しました。次第に自分の中の「デザイン」の意味合いが非常に曖昧であることが原因で、頭の中をこんがらがらせているのだということに気が付き、そこから理解を深めるための終わりのない読書を最近していました。

そんな中、ポール・ランドによるデザイン思考という本を読みました。ホール・ランドは、世界で最も重要なデザイナーの一人で、アメリカにおけるモダンニズムとコーポレートアイデンティティ・デザインの先駆者としての功績を讃えられています。このデザイン思考は、ランドがまだ若い頃に書かれた本ではあったのですが、彼の推敲され、極限までに磨かれた文章とデザインに対する哲学は、彼が非凡なデザイナー、教育者、哲学者であったことがうかがえました。

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ポール・ランドのデザイン思考を読んでの感想(ポスターで)

如何なる形式の視覚的意思疎通の技法は、外観と機能性の体現であるべきであり、美しさと有用性の融合であるべきである。

「優れた設計図・レイアウト」を生み出すためにデザイナーがすべきことは、関連性のない要素を無作為的に見た目に良い配置をすることだけであるということは、グラフィックデザイナーの役割に対する誤った認識である。ここで暗示れているのは、このようなデザインは、単にこれらの要素を何かが起こるまで動かし続けることで達成されるかもしれないということである。最善の状況では、このプロセスには、不確定要素に対する時間のかかる挑戦と失敗の反復と認識されるかもしれないが、最悪の場合には、計画や使令、規律に対する無関心とも取られかねない。

上の2つの引用文は、ランドのデザイン思考の中で最も共感できた内容です。

ランドの本から学んだことで最もデザイナーとして重要だと感じたことは、デザインをするに際して、取り扱っている内容・プロジェクトと用いる視覚的要素の関連性を理解し、その判断がその状況下で、どのような意義があり、どのような実用性があるのかを考慮しなければならないということでした。何かをデザインするに当たって、見た目に美しあるべきではあるけれども、もしもその解決策自体が扱っている内容と全く関係がなければ、微塵もデザインの意味がないということです。

ランドは、価値があり、実用的なデザインを生み出すには、デザイナーは何かしからの心理的なプロセスと請け負った仕事内容の理解を状況に応じて、確実に行うことが必要であるの述べました。おそらくここでは、優れたコミュニケーションを駆使することの重要性を理解することでランドのように優れたデザインを実現できるのだというようなことを言っていたように感じました。何かしらの精神的な処理というような曖昧な表現を用いた理由としては、彼の生きた時代には製作したビジュアルデザインの解決策としての効果が実際にどれほどであったかという統計的結果を集計し、その後の調査や実行に反映できる技術が存在しなかったことが考えられます。それを踏まえた上でも、デザイナーはまずコミュニュケーションをそつなく確実に熟せる能力が大前提としてあることを理解しました。

現代社会は、誰でもテクノロジーの恩恵を享受することができます。マエダ氏が何度も述べていたように、テクノロジーはこれまで一部の人々が開発し、実装していたものから、誰もが使用する生活の一部・ライフスタイルへと変遷してきました。こういった状況下において、デザイナーの重要な役割が昨今急激に注目されてきています。興味深いことに、マエダ氏の強調するデザイナーの役割は、ランドが信じた美しさと実用性をつなぐというデザイナーの存在価値と共鳴します。もしもデザインが、単なる個人表現の延長線上の芸術であったとしたら、すでにこのテクノロジーの発展した社会から職業として消滅していたことでしょう。しかしかながら、実際に消滅することなく、様々な問題を解決するためのプロダクトやサービスに人間らしい感情や共感といった価値を加え、美しく実用的な解決策を提供することのできる存在であるからこそデザインの価値が再考されだしているのではないかと強く思います。

じゃあ自分は何になりたいのか。

自分なりのデザインの価値を見出せたいま、自身を「グラフィックデザイナー」として定義することは正直不十分であると感じます。まさに必要な条件ではあるけれど、十分な条件は満たせていない感覚です。これまで見つけたものの中で、一番近いと感じた名前は「multidiciplinary (interdiciplinary) designer」です。意味的には学際的なとか多分野にまたがるとかそんな感じです。一つのことに縛られて、それしか出来ないないなんてことは性に合わないし、興味のある分野での問題解決にデザインを役立てたいと感じている今の自分には、しっくりとくるものがありました。これから先は、多くのクライアントの問題や自分から新しい問題提起を行い、を々なチーム環境・役割の中で活躍していくこと念頭に行動して行きたいと思いました。

積み上げる。

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前回の投稿から一ヶ月が立つ前に何かしらを書き上げようとしています。このブログ自体2年前になにかしなきゃいけないという思いつきから本格的に再開しました。当初の目的は、週一間隔で投稿して行くつもりでしたが、日本語と英語の両方でブログをすることを決めてからめちゃくちゃ自分自身を忙しくして、さらには普通に学校と仕事だけでいっぱいいっぱいになり今では、月一がやっとの状態です。それでも、今まで書きためてきた自分の文章を振り返るのはとても楽しくて、自分の中で意味があるものになっています。

前々から感じていたことではありますが、より少ない情報量でより多くの投稿をする方が、かなり自分の成長に効率的であることに最近さらに納得させられるようになりました。色々とあれこれ考えていても、結局人に伝わるような形で言語化しないことには何も意味がないことをに気がつきました。思いついた考えをノートに取らない自分にとってはなおさらです。

多くの人が自分には発想力がないとかアイデアがないとだめだとかそんなことを言っています。自分も少し前まではそう思っていたし、準備もなしに行き当たりばったりで挑戦したところで何も得るものはないと考えていました。

でも、色々やって思ったのはどんなにすごいこと言ってたって、実際に始めないことには何も達成できないし、それこそ何も得ることができません。実践に勝る学習はないと思います。

すでに証明されたセオリーや他人の知識を読書によって知ることは、未だ自分が知らない世界への窓口にはなってくれるけれど、自分自身で解釈して実際に使ってみない限り、その世界を体験させてくれることはあり得ません。頻繁に自分の考えを言葉に書き出すことは、その情報のメタ化のプロセスの一つ、実践の一部だと考えています。だから、やってみようと思います。

大学生活も気づけば残り一学期を残すのみとなりました。今まで沢山見たり、聞いたり、やってみたりしてきましたが、まだまだ不十分だと思います。今までの経験のおかげて少しはやりたいことが見えてきたし、漠然ではあるけど少しずつアイデアが具体化し始めています。いろんなことにこれか挑戦して行くことは、楽しみであると同時に少し怖くもあります。

どうしていいからよくわからないから、とりあえず計画を立てたくなることもあります。でも今まで計画通りに行ったことなんて一度もありません。いつも常に変わっている状況に対応して、どうにかこうにか目的を達成することに集中しています。その過程で不必要なものが必ず出てきて、それらを取り除いたり、変更したりすることで前進することができます。

あれこれ考えるよりも、実際にやってみることで経験したこの「どうにかこうにか」が自分の中の要らないものを一つ一つ取り除いて、最後にはシンプルで洗練された成果物を生み出してくれます。

この過程は、デザインの試して、学んで、繋いで、紡いでというデザインのプロセスによく似ています。自分はこの過程が好きだし、もっともっと積み上げていきたいと思っています。

デザイン思考。

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一ヶ月以上が過ぎてしまいました。自分の考えてこと、面白いと思ったことを瞬間的に頭の中で完成させて繋いでいくことは大変な作業だとひしひしと感じます。ブログを書くときとか他に何か面白いことを思いついたとき、メモをしたりすることはあっても急ぎ足でそのアイデアを一気に形にしようとはしません。たいていの場合は、頭の中でふわふわの浮かんでいる状態を継続させます。

そんな中で一番最後に取る手段が、文字に起こすということです。自分の思っていることを言語化するという作業は、まとまりのない考えをゆっくりと平面的に繋いでくれるのにとても役に立ちます。ほんの少し前までは、この手順は書くときだけに使えるものだと思っていました。しかしながら、気がつくとデザイナーとして作業しているときにも、全く同じ方法を使っていたことを知りました。デザイナーにとって、デザインするということは、コンセプトをよりうまく、明確に伝えるために用いる最終手段であって、デザインすること自体が目的というかそういうことじゃないんだと思います。

 

何を始めるにしても、まずは問題提起から、誰が、どこで、どんな状況で困っているのかをはっきりとさせることが必要です。その後に、何を一番に優先して解決すべきなのか、受取り手の情報を正確に見極めた上で、最善の解決策を探る。そのあとにデザインが来る。最近、特に欧米諸国で注目されているデザイン思考というのはまさに上で説明したことをもっと細かく使い分けていくことを指します。

 

デザインは、人類の発展や歴史に常に一緒にあって多くの影響を与えてきたと思います。

 

今の世の中で、自分たちが手にしたり、食べたり、住んだり、着たりしている大抵のものは、デザインさていると言っても過言ではないと思います。地球が持つ自然だけがそれ自身のデザインのシステムの中で生み出されています(最近は遺伝子組換えをしたり、もしくは単純に破壊して人間の手によってそのシステムを変換することは可能になっていますが)。

グラフィックデザインに関して言えば、言語の誕生によって人類のコミュニケーションにおいて非常に大きな役割を担ってきたんじゃないかなと思います。自分たちがどのように考え、書き、話すという知能的な能力は、この言語的コミュニケーションによって可能になっています。言葉の違いによって、文化や伝統、そして個々人の人間性にも大きく影響しているのではないかと考える時があります。

特にグローバリズムが世の中に浸透し始めてからは、世界中の人が英語を共通の言語として学び、日本でも英語ができることがまず一つのステータスとして、持つべきスキルとして多くの人が血眼になって勉強しています。このような状況を少し俯瞰的に見直してみると、途上国・発展途上国にかかわらず、多くの人が英語を話せるようになることで、また英語を通して現地の人とコミュニケーションをとることで西洋の(英語を歴史的に母国語にしてきた国々の)文化が他の文化に大きく浸透してきているように感じます。この現象の全てに悪影響があるようには感じませんが、明らかに近代の植民地支配のような感覚で、文化的な侵略が着実に前進しているように思います。

上で少し話した通り、言葉の力は強いと思います。したがって、

タイポグラフィー

印刷物の読みやすさである可読性や、視認性、そしてその美しさを得るために、活字の配置・構成やその属性すなわち書体、字体の大きさ(ウェイト)、行と行との間隔(レディング)、文字と文字との間隔(カーニング及びスペーシング)、印刷紙面上での活字が占める領域の配置・構成(レイアウト)などを設定し、経済的に効率良く印刷物を出版すること

は人間社会の言語間コミュニケーションにおいて人々の情報の認識や吸収に非常に効果的であると言えるとおもいます。その力は、新たな社会の流れを作ることができるかも知れません。

さて、なぜ自分はこんなことを書いているのか?理由は、今まで説明してきたことが自分が大学で勉強していることだからです。そして、これが自分が将来生計を立てていくために選択したスキルセットの一部であるからです。

 

デザインとは、自分の解釈では、
純粋な芸術ではありません。

誰でも、
何かしらを綺麗に、
可愛らしく装飾して、
イラストを描いて、
それらを「デザイン
と呼ぶことができます。

しかしながら、それらはデザインが本当にできることの半分も達成することはありません。
デザインは、
人間が扱う全てのものを機能的にし、
親しみやすくし、コミュニケーションを可能にし、
その上で視覚的に美しいテイストを加えることができるものであると考えています。

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デザインが、どのように作用するか。

今回の投稿はかなり普段の内容とは異なっているように感じます。ブログを始めた頃とは異なり、内容が抽象的だったり、啓発的な内容だったりしていることは確かです。しかし、気づいたことは、自分はこのブログを通して自分の頭の中を明瞭にし、目標に向かって前進するための記録をしているのだということ。

したがって、内容が自分にとっては明確でも、読む人にとっては何じゃこりゃとなることもあると思います。なので、今日は自分がまとめて言いたかったことを最も的確に表現した引用文を使って締めにしたいと思います。

 

スタイルは、流行り、忘れ去られる。
しかし、優れたデザインは、言語となる。

—マッシモ・ヴィネッリ

広げる。

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インスピレーション感知。

こんにちは。また約一ヶ月の月日が過ぎてしまいました。2016年の夏休みは、今日を残して終わろうとしています。夏休み期間中にそれなりに多くのことをしてきたと思いますが、実際にはそれほど多くのことを成し遂げたという実感はありません。だからといって文字に起こすべきことがなかったというわけではありません。特にこの夏の間はしばらくデザインのいう枠組みから外れた活動を中心にやっていたので、実際にこのブログに載せるようなものがあまりないせいかもしれません。

何よりかもまず、就職活動をした感想があります。

選考を受けた数社と面接を繰り返して、周りの同世代と話を重ねていく中で、留学を通して歩んできた自分だけのけもの道から元の整えられた一般道に戻される感覚を味わいました。何となく心地よい気持ちになる場面もありましたが、嫌だったのは自分で考える力を奪われるように感じたこと、自分を押し殺すことを覚えなければならないのだと思わされたことでした。

昔から他の人と同じであることが、嫌いでした。小中高とそれを心がけてはいましたが、あくまではみ出さない程度に。正直に言うとかなりその辺りはビビリだったのかなと思います。日本で学校に行っている間は、周りと同じことをすることが良しとされていました。高校生までの自分は少しそれをはみ出す程度でよかったのだけれど、アメリカで多様性とか個性とかいろんな意味でぶっ飛んでいる環境にさらされてしまった今、もう元には戻ることはできないであろうとそんな感じがしています。

周りの就活生を見ていて、そして自分もやってみて、何百、何千、それ以上にある企業の中から自分に最も合うところを見つけ出し、win – winな関係を構築した上で就職するなんて、至難の技どころではないと思いました。何十個も受けた上で多くの人が1つや2つ内定をもらった中から選択していくのですから(もっとうまくやってる人もいるでしょうが)、正直完璧な条件で前に進めている人などいるのかと思う次第です。まして自分に翻っては、時間もない上、人にへつらうなんてそうそうできないし、せっかく雇っても何年かしたらやめてしまう可能性が高い扱いにくい存在でしかないので、さらに条件が厳しい。笑

条件が整った上で目的を明確にして、時間をかけて取り組まないとまずは前進できないなとそう感じました。

 

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プレゼンしてる自分。

話は変わって数週間前、NPO団体のカタリバのボランティアの方々と一緒に、熊本地震後から行われている益城夢創塾の活動の一環で、30人程度の中学生を引き連れ集団宿泊に参加してきました。この益城夢創塾というものは、震災の影響が大きかったエリアで小・中学生を対象に継続的に行われています。自分ははじめ父親の紹介で、熊本県の行政から派遣という形でこのボランティアに参加していました。

実際に関わった生徒の中の半数以上が地震の影響で住む場所をなくして、今も避難所や仮設住宅から学校に登校している状況でした。そんな大変な中でも、少しでも地震から離れ、楽しい思い出を作ろうというのが今回の合宿の大きな目的でした。

一泊二日の合宿の初日、合宿のプログラムとして組み込まれたカタリバの活動の一つに「カタリ場」という時間がありました。この活動は、NPO団体であるカタリバが普段高校生を対象として行なっている事業の一つで、大学生が自分の人生をベースとして高校生たちに彼らの将来へ向けメッセージを送るというものです。

対象の学生は中学生でありましたが、自分の人生について話をするというチャンスを今回いただき、20分間の中で自分のこれまでの選択の数々について生徒に少し話をすることができました。人前でそれなりに準備をして話をするのはかなり久しぶりだったので最初はかなり緊張しましたが、全体的には悪くなかったかなと感じています。自分が話した内容としては、なぜ自分が学ぶことが好きなったのか、なんで留学したかったのかいうことをベースにして中学生が少しでも何かしらを受け取れるようにと考えながらデザインしたつもりではあります。しかしながら、実際に彼らがどれだけのことを自分の話から感じ取ってくれたかは、正直わかりません。

自分の地元である熊本の若い世代に何か伝えたい、元気になってもらいたいという気持ちを持って参加した合宿でしたが、実際のところ自分の方が一緒に参加した中学生から学ぶことの方が確実に多かったです。最初はめちゃくちゃいじいじしていた中学生達も慣れてくると次第に、彼らの中にあるそれぞれの多様な意見や夢の話をしてくれました。

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熊本出身の人。笑

自分が参加したスタッフの中で唯一熊本出身者であり、留学経験があり、英語を話すことができたこともあり、熊本・日本の外にでて、目標や夢を叶えたいと思っている生徒たちが質問をしてきました。夢に現実味を持たせるためにと勇気を出して質問してくる一方で、中学生達からの質問で多かったのが、「自分なんかで挑戦してできることなのであろうか?」という内容でした。小さく縮こまって、手の届く範囲で挑戦した方が安全だというような空気感を中学生ながら感じていたのだと思います。違って夢に対して自分の話をベースにしか答えることができなかったので、あまり確実なことは言えませんでしたが、彼らに対して自分がかけることができた言葉は、「やりたいと思うなら実現するまで努力すればいい」でした。勉強すればなんでもできる。本気で頑張っていれば、自然と周りからのチャンスもやってくるはずだとかなり曖昧なことを言っていたと思いますが、本心でした。

自分が中学生の時なんて、大人になって何するとか、人生で成し遂げたいことなんて特になかったと思います。ハンドボールをできていればそれでよかったし、それしか考えていませんでした。でも、今の彼らにはなんとなくだけどやりたいことも目標も見えかけている。中学生なのにそんなに自分を過小評価して守りに入る理由なんて微塵もないと思います。

やりたいことをやりながら仕事をして、きちんと生きていきたいなんて言うと「どうやるの?」とか「大丈夫?」とか言われて、自分自身でも不安になることがたくさんあります。でも実際に少し視野を広げてみれば、努力で必ず届く範囲に道はあるように思います。だからこそ勉強するし、どうすればできるかを常に考える。思考を止めません。

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最近オリンピックにシーズンに乗っかり、「イチローが嫌いだ。」というキャッチフレーズを元にしたトヨタ自動車CMが流れています。その理由は、イチローを見ていると「限界という言葉が言い訳みたいに聞こえるから」「自分に嘘がつけなくなるから」「努力すら楽しまなきゃいけない気がするから」「どんな逆風もチャンスに見えてくるから」と他の四人のアスリート達からの言葉で締めくくられています。めちゃくちゃいいキャンペーンだと思いました。心に響きます。

メディアでは、多くのアスリートや多方面での成功者の最終的な結果の部分しか取り上げられません。オリンピックをテレビで見て、選手たちの成果を知るのもまさにその例の一端でしょう。しかし普通の人からは見えないところに、計り知れない努力と研鑽がなされていることを理解しなければいけません。一流の人の努力は、普段から段違いかもしれませんが、同じ人間です。その気になれば、自分でもこなすことができると思います。しかしながら、最も重要なことをその普段の努力が日々着実に積み上げられていること。塵も積もれば山となる。千里の道も一歩から。何人もこの過程なしに大きな成功はありません。

だから誰でもやれるし、一緒に合宿を過ごした生徒たちには、努力すれば絶対にできるとそれしか言えませんでした。

震災後、夏休み期間を使って自分の地元の熊本のために何かしたいと思い自分に一番向いていると思った形で始めたボランティアでした。しかし、実際には自分が何者で何をしたいかということを改めて考え直すきっかけになる時間だったと思います。

どれだけのことができたか分かりませんが、自分が関わることで中学生たちが少しでも彼らの将来について具体的な想像をすることができたのであれば幸いです。

 

最後に、今回偶然にもこの合宿に招待していただき、貴重な体験をさせていただいたカタリバのスタッフの皆さんに感謝したいと思います。https://www.facebook.com/katariba/?fref=ts

紡ぐ。

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渋谷。

帰国してから約1ヶ月半経ちました。6月の初めから7月の初めまでしばらく東京付近にいて就職活動なるものをしていましたが、中々時間のかかる骨の折れる活動でした。

このブログの投稿を書く前に、もう一つ日本の就活について色々と実際に経験して思うことをまとめていましたが、途中からなんとなくやる気がなくなってしまい、書くことをやめてしまいました。ということで現在ダラダラとこの新しい投稿を書き上げているのです。

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猫カフェ in 東京。

学生生活最後の夏休みを迎え、とりあえず読みたい本をできる限り買っては、のめり込むように読んでいます。帰国する度に、スイッチが切り替わったかのように毎回本を読み漁っているですが、完全に今の自分にとってはなくてはならないものへとなっているような気がします。大きな理由としては、やはりこれらの本は、自分と異なる視点、考え方、知識、経験を短時間で吸収することができるということにあります。特に何か具体的な目標があって、それを達成するために知識を集めているのではなく、もう少しフランクな感じで読んでいるだけでも、世の中の様々なアイデアや構造を理解して、そこから何かしら新しいものを生み出すようなきっかけになっています。

新しいことを知ることは、同時に知ったことによって自分がさらに何を知らないのかということを気づかされる機会にもなります。まさに「無知の知」を知るという感じでしょうか。

何れにしても本は、世の中の理を知る上で人間一人が、その人の人生のみでは体験しえない経験を学び、知ることができる最上の資源だと思います。しかも書籍の中に存在する筆者の知識・経験は、その趣旨が最も理解しやすく、興味を引く順番で構成してあります。そこには言語化された他者の経験が綺麗な流れとして存在します。

ではなぜこの平面的な一つ一つは異なる単語ごとで形成された文章が美しく感じるのでしょうか。それは、思考の整理学の著者である外山 滋比古氏によると「不連続の連続」の作用に他なりません。

ではこの「不連続の連続」とは一体何を表すものでしょうか。最も簡単にこの言葉を言い換えると、論理的な思考というものに行き着くと思います。いわゆるクリティカルシンキングというものです。クリティカルシンキングとは、英語での文章構成をする際に最も基本的で重要視されるポイントであります。この観点は特別文章を書くことだけに縛られることはありませんが、説得力のある思いや考えを整理して伝えたい時に非常に役立つものであります。

話を戻して、ライティングのクラスにおけるクリティカルシンキングに目を向けると、個人的な感想としては多くの学生がこの言葉に困惑して、なんとなく要領を得ないまま数多くの文章を書いているように感じます。

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ジュースの一つ一つの箱達が、Chico Stateの名前へと繋がる。

このクリティカルシンキング、または不連続の連続の仕組みを理解するには、どのようにパソコンの画面上の写真や実際に印刷された写真が構成されているのかを比較対象として考えるといいと思います。写真は、ある程度の離れた距離から見れば日常生活のある一部分を完璧に切り取った様子を映し出していることを理解できます。しかしながら、その細部までをはっきりと映し出している写真は、何によって構成されているのでしょうか。それは、虫眼鏡などの拡大レンズを使用して、その写真を非常に近距離から観察した時のみ確認できる赤や青、緑などの基本的な色の小さな集合体によって現実世界の様子を写しているのです。

ここで、とても画質の低い写真を思い浮かべてみましょう。画素数の低い画質というのは、拡大すれば拡大するほど何を写しているのか全く理解できなくなることは、容易く想像できることと思いますが、画素数の高い普通の写真と差し比べても明らかに写真の映し出す内容が鮮明でないことも想像できます。しかし、その画質の低い写真を構成する色については、こちらの方が確認できます。

さて何故にこの写真の例を、文章構成に関わるクリティカルシンキングを理解するために持ち出したのでしょうか?理由は、簡単です。写真を構成しているのは、前述の通り、小さな色の点です。これら一つ一つは、個々の色を持ち合わせており単体として存在しています。いわゆる「不連続」の状態です。しかしながら、これらの微細な点々を一つの大きな塊(写真)として理解した時、この不連続は、「連続」の状態となり、新たな意味を持ちます。

画質が低ければ、その写真の意図する景色や人物がはっきりと伝わらず、逆に高ければ、その意図を明確にかつ詳細に伝えることが可能になります。それぞれの単体である色の点が、意味をなす配置に正確に、そして詳細に並ぶことでこれを可能にするのです。

翻って、論理・文章構成にも同じことが言えます。何かの議論的な相手を説得しようとする文章を書くにあたってまず明確な結論が必要になります。写真でいうところの映し出されている対象です。さてそれを明確に述べるために何が必要か。それは、文章を持って達成しようとする目的を支えるための根拠や証拠にあたります。写真でいうと、これはそれぞれの色の点でしょう。それぞれの根拠は、不連続の状態です。書く内容自体の背景情報を鑑みなければ、全く関係のない証拠であるかもしれません。しかしながら、文章を説得力のあるものに仕上げるためには、これらの個々の根拠の点と点を線で繋ぐように、配置し、詳細に書き出すことでそれは、不連続を連続という形として昇華します。多角的な視点から、一つの統一された文章に仕上げることこれがまさにクリティカルシンキングの神髄であり、不連続を連続させるという意味であります。

ある文章や本を読んでいて、内容が全く頭に入ってこないことを経験したことはありませんか?具体的には、英語の文章を読んでいて単語が分からないので、わからない単語が出てくる度に一々辞書で調べてから読むようにすると、単語は理解できるのに文章自体が全く理解できない。

しかし、思い切って辞書引くことを止め、文章を最初から最後まで通して読むと意外にも、文章の大意は理解することができる。これもまた「不連続の連続」という現象を端的に表しています。

文字一つを取っても、単語一つを取っても、それらは究極的に言えば、単体です。いくら長々とした文章の中に埋もれているとしてもその事実には変わりありません。その文章の中で、それらの単語が配置された位置・状況によってそれらの単語は、全体の意味を生み出すために作用します。文章を読むときに、目の動きを止めずに一つ一つの単語を残像として認識し続けることで、単体同士である単語のつながりを読み取ることができます。理解し易い文章構成になっているからこそこの「不連続の連続」は、確立されます。

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夢を紡ぐ。

これまで書いてきた内容は、自分なりに先ほどの述べた「思考の整理学」という書籍を読んだ上で自分なりに整理し直し、書きまとめたものです。この不連続の連続という考え方は、単に論理を構成するためのものだけではなく、もっと多くのことに適応されるような気がしています。

例えば、イノベーションは、異なる二つ以上の領域の分野が混ざり合い、飛躍的なシナジー効果を発揮する時に生じます。これはまさに、不連続であった領域が、その連続として変化している明確な状態だと思います。

本を読み、自らの経験を通して、できる限り多くの知識を学ぶは、まず第一に重要です。しかし、今思うに、それよりもさらに重要であるのは、学び身に付けた知識を如何に繋ぎ、紡ぎ、新たなものを生み出すかということだと感じました。

 

学び出し、紡ぐこと。