学ぶために作る。

ケン・ロビンソン氏の「学校教育は創造性を殺してしまっている」という題でのTEDトークを目にしたことがある人はたくさんいると思います。このトークは約10年以上も前のものですが、初めてこのトークを見たときにものすごく共感して、感動したことを今でもよく覚えています。去年たまたま、自分の大学があるチコでケン・ロビンソン氏の講演を直に聴くチャンスがありました。彼の現在の教育システムが生徒から自発的に学び、自らの創造性を十分に発揮するための資源として機能することができていないという主張は、明確に現在の問題点をついた的確な指摘だと考えています。少なくとも自分自身の中では、しっくりとくる考え方であることは間違いありません。

子供の時から誰かに、教室の中に座らされてただただ授業を受けるということが好きではありませんでした。ある時父親に地元のプールへ連れて行かれ、泳ぎ方を教えようされた時も一切話を聞かずに自分が好きなようにどうやったら体を水ので動かすことができるのかを考えて、泳いでいたのを覚えています。多くの中学・高校のクラスでも、そして大学生である今でも、授業中は、特に講義をされていて、本当につまらなくて聴くに値しないときは、全く聞いていませんでした。

特に高校の時は、授業を聴くのに耐えかねて、自分で自分のその時に勉強したいと思っていたことを受けている授業に関係なく、黙々と一人でやっていました。

しかしながら、テストはなぜか好きでした。多分、テストというもの自体がなんとなく点取りゲームみたいな感覚だったからだと思います。本当にテスト前にだけ、極限まで集中して勉強していたので学校で1番にはなれませんでしたが、そこそこの成績は出せていたと思います。そして、何よりも重要だったのがテスト勉強をすることによって、目的に応じて何をどうやって学んでいけばいいのかということを自分の中でシステム化することができたということです。

という風に自身の経験と照らし合わせてみても、ケン・ロビンソン氏の主張の内容は納得させられ、考えさせられる素晴らしいTEDトークであることは間違いありません。しかしながら、この話の中に大きく抜け落ちている点があると思います。それは、彼自身が提起した問題を解決するためにどのように行動を起こしていくかという具体的な指針がないという点です。なぜ人々は、新しい知識を獲得し、自らを成長させるための学びに基づいた好奇心や創造性をこの教育システムを経て徐々に失っていくのか。なぜ人々は、他人と異なったことするということに違和感を覚え、大衆と同じ道を辿ることを良しとするようになっていくのか。どのようなシステム・基盤をを構築すれば、各個人の多様性を元にして最善の学びを支えることができるのか。自分なりに色々と思考を巡らせて見ました。

 

このもう一つのTEDトークは、伊藤襄一さんによる「革新的なことをしたいなら「ナウイスト」になろう」という話です。現在、日本人として初めてMITメディアラボの所長を務められています。自分の考えていること、やりたいなと思っていることになんとなく意識を張り巡らせていると人は得てして、本当に元々示し合わせてあったかのように、その時に必要な情報に出会うことができると思います。インターネットによる膨大な情報にアクセスすることができるようになったことはその偶然的な運命性の確率を飛躍的に上昇させたと思います。その感覚がまさしくこのTEDトークを見た時に感じました。

約3年前に行われたスピーチですが、伊藤氏の強調する現在のテクノロジー発展にともうなうツールや情報としての技術の民主化やイノベーションの変化に対する考察は、3年後の現在でまさに起こっているこのそのものを明確に説明したものだと思います。

前回のブログの投稿で、テクノロジーの民主化については少し触れました。それにより今までは、大企業や一部の大学機関などでしか起こり得なかったイノベーションが、さらに自分たちの手の届く範囲で起こり始めているということです。伊藤氏のスピーチは、前半部分でその変化の内容をより明確且つ端的に説明してあります。

まず初めに、テクノロジーの進歩・民主化により、イノベーションにかかる費用が大幅に現象したことが挙げられました。特にオープンソースを基本とした多くのプログラミングの世界では、どこの誰でもパソコンとインターネットさえあれば、誰でも新たな価値を創造することができるということでした。

2つ目は、テクノロジーの発展の進度が加速度的に速くなるのに伴い、これまでの予定を明確に立てるという計画行動自体が理想的ではなくなったことです。学習を手助けするための手段・資源としてのインターネットが多様化してきています。医者や看護師など大学を通しての資格を取得できる分野を除けば、何かしらのプロジェクトに取り組む際に、それを実現するために必要な知識や人材、資金を調達することが可能になりました。他のスピーチの中では、伊藤氏は先に挙げた医者や看護師、弁護士などの実質的専門業務は、一つのことに特化した人工知能による大体が可能であることに伴い、大学などを通して資格を得るためにかかる時間が減る可能性があることを示唆していました。これからは医者や看護師として責任が患者と直接的、精神的に変わる部分に重きを置いたものに変化してしてくことなども述べられていました。伊藤氏はこのような自分のニーズに応じて、柔軟に学びを進めていくことの状況を「Pull over Push」というように表現しました。意味としては、自発的に情報を取り入れる学習姿勢をPull = 引っ張る。受動的に講義などを通して学ぶ押し込み型の学習姿勢をPush = 押す。となります。

3つ目は、先ほど書いたPull over Pushから派生した「Learning over Education」というアイデアです。これは伊藤氏のスピーチの中で最も共感した内容でした。彼は、「教育は人々があなたに対して行うことだが、学びは自分が自身に対して行うことである。」というようにこのコンセプトを説明してくれました。MITメディアラボを務める彼自身は、大学中退者である異端児であったことにふれ、その自分がいかにして自らの学びを通して数多くのプロジェクト・ビジネスに触れることができたことを強調していました。スピーチの中でこれまで書いてきたポイントを効果的に説明するためにいくつかの伊藤氏自身の例が使われていました。その中の一つが2011年の東北大震災が発生し、福島原発が爆発した時にインターネットを介して、集まったプロジェクトメンバーと共に、当時の日本政府がいくら準備しても製作し、実装することができなかった「セーフキャスター」と呼ばれる放射能測定器をアメリカから企画し完成させ、データを公表することができたことをあげていました。

人工知能のにおける研究のスピードは予測できない値で加速しています。5年後には、現在就きたいと考えている仕事ができる保証はありません。しかしながら、様々なことに目を思考をはぐらせ、学ぶことを辞めていなければ必ず何かしらの解決策はあると思います。

伊藤氏のような日本人がアメリカの世界を牽引する教育機関でテクノロジー・デザインをベースとしたイノベーションを促進していることを本当に誇りに思います。これからそういったトップレベルの組織で行われた研究やデータは、大衆が使用できる形でさらに公開されていくことと思います。

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色は異なっても同じだし、個性が違っても人間であることに違いは無い。

しかしながら、このような活動は日本国内ではかなりマイナーなものであるように感じられます。今の社会や教育のシステムは、各個人の自由な発想や目標、多様性を軽んじ、結果的に、多くの人が体面を理由にシステムに則った「道」を辿っているように思います。これは短絡的に、アメリカのシステムが完璧で何も問題がないと言っている訳ではありません。ただ、アメリカにいてひしひしと感じることは、この国の人々(生徒・教育者を含め)は多様性が支援され、一人一人が自らの幸福実現のために最善の選択肢を見いだすことができるようにという努力・理解・機会がより多くあるということです。結果として多くのイノベーションやスタートアップはアメリカベースであることが多かったり、教育に対する支援の数が多いことは明らかです(新大統領の下ではどうなるかわかりかねますが)。

将来的には、日本に帰国するつもりでいます。その時は、まずは自分の生まれた熊本からでも、デザイナーとしてそして学び続ける者として、現在のシステムの改善に参加していきたいと思っています。

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